阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2011年4月 6日 [ポリティクス]手嶋龍一×阿部重夫 「福島原発」対論(中)

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※上からの続き

手嶋 今回の東電福島原発の事故は、総理官邸、経産省、その外局である原子力安全・保安院、東電それぞれが抱えるシステムが2重、3重の機能不全を起こしたことで、より深刻にそして長期化してしまったといえます。原子力空母ロナルド・レーガンの例で説明しましょう。艦上で巨大な原子炉の事故が起きたと想定します。初動の防災オペレーションは、もちろん空母の責任で対処します。しかし、自分たちの応急対応の範囲を超えたと判断した段階で、その決断こそが重要なのですが、ペンタゴンの首脳陣に本格的な対応を委ねることになります。その事故が複雑で重大であると判断されれば、それを作った設計陣がやはり出てきて対応します。原子炉の中枢部分が、軍事機密だったり、企業機密の固まりであったりするからです。

阿部 原子力技術は相当部分がアメリカの技術であって、まさに企業機密の固まりであり、国家機密の固まりです。米国製戦闘機の製造を三菱重工が受注したとしても、ブラックボックス部分があるのと同じように、原子炉にもおそらくブラックボックス部分が相当ある。東電は沸騰水型原子炉(BWR)を採用していて、メーカーはGEとウェスチングハウス(WH)。GEのパートナーは日立、WHは東芝が2006年に買収していますが、原子炉のコア技術はやはりアメリカに主導権がある。

ところが、初動段階で首相官邸はアメリカの支援申し入れを断ったそうです。たぶんこれは致命的でした。最終的に誰が設計し、誰が一番勘所をわかっているかを考えれば、単なるオペレーターでしかない東電に依存するのは危ない。日立、東芝だってコア技術までは理解できず、不足の事態に対応できないかもしれない。なのに彼らに処置を任せたのは、重病人をヤブ医者に委ねたようなもので、それがことを複雑化し、さらに悪化させたと思います。

しかも、チェック&バランスが効いていません。過去に何度も原発は起きた。東海村のJCO臨海事故しかり、敦賀の高速増殖炉実験プラントでも事故を起こしています。その教訓が活かされないのは、チェックする側とチェックされる側が一緒だからです。経産省内にある原子力安全・保安院、その上の原子力安全委員会というチェック側と、原子力委員会や資源エネルギー庁、そして電力会社という原発推進サイドが、お互いに牽制しあうようになっていない。

実は、その経歴を見ると、みな東大など国立大学の原子力工学科出身で、彼らは「神の火」の司祭、「原子力村」の一員なんですね。原子力を飯のタネにしている利害共同体で、原子力安全神話も彼らがつくりあげてきたのです。システム上のいろんなフェイルセーフがすべてを破られて、未曾有の事態に達した場合のシミュレーションをしていなかったのもそのためで、そこに今回の問題の根の深さがあります。

手嶋 東電の原子力担当者も、安全委員会のメンバーも、テレビに出てくるコメンテーターの専門家も皆、おなじ原子力村の利害関係者なのですね。

阿部 自分たちの安全神話を自分たちでお手盛りでつくってきた。エコ派といわれる反原発派の人たちは政治的な党派性の問題や、電力会社の懐柔工作もあって、説得力を持てなかった。それが今回の地震によって一気に表に出てきてしまった。やっぱり無理をして今までいろんな情報を抑えつけてきたのが明らかになる。

手嶋 福島県前知事の佐藤栄佐久さんの事件も、背景には原子力発電所の安全性をめぐる国・東電と当時の佐藤県政の対立が翳を落としていたと言えます。

阿部 福島原発で東電がトラブルを隠したうえに、保安院が内部告発を会社に横流しするという事態が起きて、県知事が安全神話に懐疑的になって長期の運転停止を招きました。プルサーマルについて佐藤氏は最後まで反対していました。それが3年前、西松建設の問題をきっかけとしたいわゆる汚職疑惑が持ち上がって、東京地検特捜部に逮捕されて現在も裁判で係争中です。検事が取り調べで佐藤氏に対し「あなたは国のためにならない。抹殺する」と断言したのです。

「国のためにならない」というのは、前後の状況を考えますと原発推進政策にとって邪魔であり、国策として排除すると言われたのに等しい。そこへ大震災で福島原発の事故が起きた。地元では「やっぱり栄佐久知事の言う通りだった」と一気に名誉回復、再評価の声が出て、佐藤氏が書いた『知事抹殺』(平凡社)はあっというまに売り切れて、4月に緊急増刷となりました。

裏返せば、クライシス・マネジメントの失敗だけでなく、国策であった原発推進そのものが今度は被告台に立たされたのです。経済産業省あるいは資源エネルギー庁の中にも、今回の東電の対応を見て「甘やかしすぎた」と反省の弁が出ています。常々、カネの力を背に床柱を背負ってふんぞりかえっているので、いざというときに役に立たない。電力会社を甘やかした政府の責任は大きいですね。

手嶋 同時にジャーナリストの役割、メディアのチェック機能も大切です。単に原子力に関する知識があるかどうかだけでなく、もっと広い視野からいま何が起きているのか、その本質を見抜くような視座、そして見識が求められています。正確な事実もふまえながら、それを技術的な解説にとどめることなく、日本の社会経済システムの大きな文脈の中で考えるジャーナリズムがなければいけません。いまは残念ながら、戦争が起きると、プラモデル的な解説をするような人たちがテレビに登場して、戦争を語るという悪弊が出ています。「紳士は戦術を語らず」という箴言が英国にはあるんですが。

阿部 この20日間のあいだにヘリで水をかけるとか、水を入れると汚染水が出ると騒いでみたり、樹脂を散布するとか、工学部なのに非常に発想が幼稚なんですよ。米空母ロナルド・レーガンに乗っている核災害の専門家からみるとほとんど笑止の沙汰みたいなことをやっているんだと思う。

手嶋 ヘリを使った水の散布は、海外のメディアからも随分と酷評されました。「ワールド・トレード・センターにコップを持って行ってみんなかけている」といった記者もいました。今回の福島原発の事故は、世界のエネルギー情勢に大きなインパクトを与えています。フランスの原子力企業アレバのトップがたまらないといった面もちで乗り込んできた。原子力発電が80%を占めるフランスで、原発依存にストップがかかれば、国家の重大な危機を招きかねないからです。FUKUSHIMAは、お隣のドイツにも翳を落としています。反原発の理念を掲げた環境政党グリューネ(緑の党)が、ドイツ自動車産業の心臓部ともいえるバーテン・ビュルク州の選挙で躍進し、原発推進派が大敗を喫する事態を招きました。ドイツは戦前は、社会科学でマックス・ウェーバーに代表されるように、錚々たる人材を輩出したのですが、戦後はウェーバーに比べられるような人は見当たりません。

阿部 まあ哲学系の人はいるでしょうけれど、社会科学では確かにいないですね。

手嶋 そうしたなかで、政治思想の分野では、唯一、緑の党の思想が、世界の潮流に少なからぬ影響をあたえたと言えるかもしれません。当初は、環境テロリストなどと言われて警戒されていたのですが、もっともリーダーの多くは、新左翼のテロリストに近い系譜に属していたのですが、緑の党は一貫して原発の建設に異を唱えてきました。それがきっかけとなって環境政党として脱皮し、連邦議会でも一定の議席を獲得し、社民党との連立政権に入って、緑の党を代表するヨシュカ・フィッシャー氏が外務大臣を務めるまでになりました。この緑の党が掲げる環境主義の理念は、現代世界に再び大きな影響を与えることになるかもしれません。

21世紀初頭の国際社会は、「神の火」と呼ばれる原子力とどう相対していけばいいのか、「神の火」を制御していくことが叶うのかが、今度の福島原発の事故を機に問われているといっていいでしょう。それだけに、今回の事故が、あまりにもお粗末なリーダーシップによって、「神の火」を消してしまうきっかけになってはたまらないと考えているエネルギー関係者も世界には数多くいます。

阿部 自分もメディアの一端を担っているので大変言いにくい面がありますが、東電の記者会見はほとんど途中から殺伐としてつるし上げに近い状態になったようです。情報発信の場として新聞やテレビが本当にその役割を果たせたんでしょうか。

総じて言えばパニックを起こすまいという官邸及び政府の政策に、メディアは従順に従っていて、一種の報道管制的なものが敷かれていた気はしますね。たとえば初日の津波の報道でも、津波にのまれる亡くなったであろう人たちの映像も本来は相当あったと思いますが、全部きれいに消されていました。

疑問なのは安全性の問題や蓋然性の問題ですね。東京では水の買い占めというパニックが起きましたけれども、あのときの発表の仕方は、突然前の日のシーベルトからベクレルという単位に変わりました。昨日までの単位と違っていて混乱をきたしますし、どれくらい危険なのかもほとんどわからない。

手嶋 ただちに影響を与えないけれども、1歳以下の乳幼児には飲ませないでほしいという矛盾した言い方でしたね。

阿部 何らかの影響があるから発表するんでしょうが、発表がエクスキューズ(言い訳)になっていました。あげくの果て「基準が厳しすぎるからもっと許容度をあげよう」という本末転倒な議論まで飛びだした。批判ばかりしていてもしようがない、前向きに報じよう――というマスメディアの報道は、信頼を失った気がしますね。

手嶋 しかしその一方で事実は正確に伝えなければいけない。それから事実に遡及し、迫っていかなければならない。それがなされているかどうか疑問です。

事実に迫っていくという点で、外国メディアの報道は今回のケースでは際立っていました。私たちもかつて特派員でしたが、ふつうは現地のメディアと同様な手厚い取材をしていれば、物量が違いすぎますから身が持たない。従って、現地のメディアの報道を道案内にしながら、独自の取材を積み重ねていくことも多い。しかし今回、この福島第一原発の問題に限って言えば、外国人特派員のほうが、非常に丁寧な取材を重ねて、ニュースソースに迫っていきました。それは、日本の報道を頼りにしていては、本国の読者や視聴者の求めに応じられない、身を挺して現場に行かざるを得なかったのでしょう。官僚機構や巨大企業との談合組織である記者クラブ制度の致命的欠陥が露呈したと言っていいでしょう。

阿部 おっしゃるとおりですね。たとえばIAEAの原子力災害の深刻度のレベルは8段階ありますが、日本が当初発表したのはレベル4。これはチェルノブイリがレベル7、スリーマイルがレベル5という中で明らかに過小評価。僕らは東電の内部関係者から、どう考えてもスリーマイルは超えているという感触は得ましたから、厳密に言うと3月15日の段階でレベル6と判断していたんですが、それを確か朝日新聞がレベル6ではないかと書いたのは、はるかに遅れて25日なんですよね。

手嶋 そして今も公式には5ですよね。でも実質的にはもう6です。こうした現状では、深刻度の認定を日本の手から完全に奪ってしまえという声がでかねません。

阿部 この判断自体において、政府側の操作でできるだけ事故を過小に見積もろうという意図が働いているわけです。いろいろ検証してみれば、炉心溶融の問題にしてもそうでしたが、あとでこっそり政府は修正しています。実は深刻な事態であったと。パニックを抑えようという大前提があったとは思うんですが、そのコントロールはきわめてまずいという気がしますね。最終的にメディアが失ったものは非常に大きい。しかも、この間パニックが起きそうになるたびになんとかパニックを抑えてきたのは、通信事情がかなり悪化したにもかかわらずメールとかツイッターなどで情報交換が行われ、デマと共にデマを打ち消すツイッターも流れて、マスメディアの報道とは違うところで抑えたという面も一つあるのではないか。

手嶋 パニックを抑えようとして報道を歪めてしまい、それが国際社会の疑惑を呼び起こすという悪循環を招いてしまったのです。今回の原発報道を見ていると、テレビを見ている人と実際にテレビでコメントをしている人との有意差はまったくないに等しい。総理官邸の会見、原子力保安院の会見、東京電力の会見、そして30キロ離れたところからの映像以外の、決定的な情報はまったく伝わって来ません。

その象徴は「この映像は30キロ離れたところから撮っています、映像は鮮明化されています」というテロップ。あれは解釈によっては非常に重要なシグナルだと思います。30キロから撮っているので自分たちも危ない取材をしていませんという言い訳なのでしょうか。いたずらに危険を冒すことはすべきでありませんが、現場のジャーナリストが取材対象に肉薄する姿勢を喪えば、単なるお知らせメディアに堕してしまうと思います。

阿部 実際に入った人はいましたからね。

手嶋 12日に建屋が吹き飛んだときに、日本テレビは自分たちの独自取材じゃないのかもしれませんが映像を持っており、NHKは持っていませんでした。30キロの映像は、一般人と同じレベルの取材しかしていませんといっているようなものです。

阿部 したり顔の専門家が言っていることも、一体何の根拠があるのかと疑問に思う点があります。たとえば、もっともらしく原子炉の図が出てきますね。原子炉をイギリスで見学させてもらったことがありますが、実際ははるかに複雑な機械です。いろんなパイプがあって、そこでああいう爆発が起きたら、ほとんど復旧作業が不可能なくらい傷むんじゃないかと思われるくらい複雑な機械です。電気が通じれば水を循環させて回復できるという図の説明は、一種の視覚的なマジックであり、実際には図のように単純な作りにはなっていない。しかし、爆発の映像はNHKも含めて当日はなぜかなかなか流れなかったですね。CNNではじゃんじゃん流れていましたが、これは世界中にショックを与えるだろうな、と思うものでした。原子炉が建屋とはいえ爆発するシーンというのはチェルノブイリでも流れませんでしたからね。

手嶋 独自の映像がメディアにないのは、未曽有の緊急事態が11日の晩から起こっていながら、日本のメディアは原発に肉薄しようとせず、24時間体制でウォッチしていなかった証拠です。これひとつとっても、一連の取材は、のちの検証には到底耐えられないでしょう。それは、一つには危ないところに記者が行かない。これではジャーナリストとしての使命が、ここ一番という時に果たせません。

もう一つ、根源的な問題を抱えています。これほどの危機にあっては、幾万、幾十万の人の命を救うために、特別な使命を帯びた少数者は、身の危険をあえて冒さなければならない。指導者はその人たちに危地に赴いてほしいと命じなければならない局面がかならずあります。しかし、戦後の日本社会はこうした事態は起こらないものとして、究極の有事からことさら眼を逸らしてきました。

大手メディアでは戦争取材の現場に、しばしば自社の記者ではなく、フリーランスの人を派遣する。これは絶対にすべきでないことです。だが、実際にはそういうケースがまかり通っています。自分たちは30キロの外にいて、お金を払って下請けのカメラ・クルーに行ってもらうべきではない。記者会見で「危険がないんですか」と聞かれたら、「何ミリシーベルト」という説明をして、「安全に配慮している」と言う。究極のところで言えば明らかに嘘が含まれています。その種の建前に逃げ込むことの不健全さを当事者もメディアももっと自覚すべきです。

阿部 現場に入った消防隊員や自衛隊員の方々にとっては、家族のこともありますし、使命感だけでは片付けられない問題がいろいろあったと思いますが、報道する側が一種の美談に仕立て上げました。

でも、協力会社の作業員の方たちはまた立場が違い、原発の最下層にはお金でやっているという現実があるわけです。東海村の臨界事故を起こしたのもやはり協力会社の人でした。「命がけで福島原発に残った50人」と、現場に入った自衛隊員や消防隊員の方たちとを全部いっしょくたにして美談にするというのは、ある意味で原発がかかえている根元的な矛盾にフタをしていることになると思います。

手嶋 非常に重要な指摘です。「本当に危険な作業のときには、アメリカから大金でマイノリティの人たちを」という話は依然として消えませんね。企業の側にそういう体質がある一方で、幾百万の人たちを救うために現地に赴いて下さっている消防、警察、自衛隊の人々がいる。そうした人たちに危地に赴くよう促しながら、政府、民主党の首脳陣の中には、彼らを左翼用語で「暴力装置」と言った人がいます。また今回夥しい数が現地に入っている米国海兵隊のことも、できれば消えてほしいと言っていた閣僚もいます。そんな人たちが、この有事の時に自衛隊員に命を賭けて出動してほしいと命じるのは、倫理的な背景を欠いています。戦後日本の隠された矛盾点がそこに現れてきていると思います。

阿部 そうですね。東京消防庁の人に対策本部長である海江田経産相が「行かないなら処分する」という言い方をしたと伝えられています。本当にそう言ったんだとしたら、本部長としての役職から言っただけであって、それを超えて「人を救うために行ってくれ」というだけの倫理的な根拠があったかというと非常に疑わしいですね。

手嶋 アメリカでは9・11のとき、ワールド・トレード・センターにいる年収1億円を超えるような人たちを救うために、多くの消防士の人たちが命を失いました。彼らは子どもがいても給料があまりに安くて大学にもやることができない、そんな現状は、超大国アメリカの正義に反しているのではないかという声がアメリカ社会から噴き出しました。その点で今回のケースは、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の用語法を用いると「日本のこれからの正義が問われている」といえましょう。

阿部 サンデル教授のような意見の人を「コミュニタリアン」といい、「コミュニティというものがあってこその正義」という立場です。今回の場合も、放射線の非常に強い地域に命がけでいくのは自分の所属しているコミュニティを守るため、それが大義名分であるということ。それを、単に本部長とか大臣であるという立場だけで命令する権限が本当にあるのか。立場だけであって、後側にコミュニティが存在しない場合に命令できるかという重大な問題ですね。

手嶋 命令するときには、命令に伴う結果責任をとることが求められます。最後の責任は自らが担うという倫理観がなければならないのですが、自主避難という言葉に象徴されるように、責任回避が行われている。「自主避難」に隠れている日本の戦後の病弊は、やはりビューロクラシー、官僚制にとって生まれてしまったのです。政治家が自らの行動でけじめをつけられないことになれば、戦前の軍部が「玉座の陰に隠れて」と言われたように、政治主導のタテマエの陰に隠れた高級官僚の跳梁を再び許してしまうことになります。

阿部 一つの象徴が、きわめてヌエ的な存在であった原子力安全・保安院です。

手嶋 ヌエ的というのはつまり、事故がおこったときには東電のせいにし、国民には自分たちが事故を守っていると言うことですよね。

阿部 監督機関なのに、実際は東電から上がってくる情報を右から左へおうむがえしに言っているだけ。現実は何もやってなかった証拠です。経産省の中にある組織で、独立性が何も担保されていない。今の経産省の松永事務次官は安全保安院の幹部だったことがあると思いますが、人事上も待機ポストです。職員は原子力の専門家ばかりではなく、実質的にはもうチェック機能を予め抜いている。実際の権限は資源エネルギー庁の原子力課課長が全部握り、原子力の政策を進めている。そしてカードとして東電を使う。東電はそれを充分承知の上で、自分たちは経営上絶対損をしない電力料金を設定してもらい、左うちわで経営しています。要するにお互い相身互い。政府と電力会社のグルという関係にあります。

電力会社のケースは典型的なケースですけれども、そういうケースはありとあらゆる業界にある。業界というのは、霞が関にとって天下り先でもあると同時にいろんなお金の出所でも。東電は広告費だけで年間300億近く使っています。それは何のためかといえば、自分を守るため、原子力を推進するため。単純に言えば東電のみならず、電力会社は、魂を売った人たちで回りを固めているような状態ですね。それを許している霞が関との癒着構造も否定できないわけです。しかしそれはもう最終的には続けられないのだと僕は思いますね。すぐ安易に東電国有化という話が出てきていますが、国有化だけでは話が進まない。

手嶋 国有化などという処方箋は、そもそもこの危機の対処を誤った背景を検証すればするほど、もっとも間違った解だといわなければなりません。今後の日本の政治体制を考える上で、かなり大きなターニングポイントになるでしょうね。

※下に続く