阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2010年2月 3日 [書評]ウィルフレッド・セシジャー「湿原のアラブ人」のススメ――滅ぼされた「エデンの園」

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彼らはマアダン(葦のアラブ人)と呼ばれた。チグリス下流の丈の高い葦が密生した湿原に住み、葦を編んだ家を建て、小舟で漁業や運送を営んでいた。

14世紀に西アフリカから現在の北京まで旅したイブン・バットゥータも、1326年冬にここを通った。「大旅行記」には追い剥ぎとして登場する。

砂漠の遊牧民との落差にこの大旅行家は目をみはったが、本書の著者も1945年から5年間、ベドウィンとアラビア半島のルブ・アルハリ砂漠を横断する旅をしたあと、ここにやってくる。

「囲炉裏の火に照らされた横顔、雁の鳴き声、餌を求めて飛びこんでくる鴨、暗闇のどこかから聞こえてくる少年の歌声、列をつくって水路を移動していくカヌー、枯れた葦を燃やす煙のむこうに沈んでいく深紅の太陽」……。

彼はエチオピア生まれの英国の元軍人で、北アフリカや中東で大戦に参加したが、戦後は探検家になり、51年から58年まではイラク南部で暮らした。

おそらくマラリアが猖獗を極め、夜は蚊や蚋などに悩まされたろうに、そうした苦痛を毛ほども見せない。凡百の文化人類学の野外調査と違うのは、その詩情と無告の民への優しさだろう。

さながら葦の平原に身を没してしまうように、彼はオクスフォード出身の英国貴族の出という出自を捨て、野生に帰りたかったのではないか。

この葦の湿原には、かつて「エデンの園」があったとの伝説もある。なるほど砂漠と荒野だらけの中東では、ここは楽園に見えたのかもしれない。

そしてバプテスマのヨハネがイエスに施した「洗礼」も、この葦の原に残るグノーシス系のマンダ教が流水に三度身を浸す洗礼を中心儀礼としているため、この地に起源があったのではないかと言われている。

だが、「葦のシャングリラ」は今は幻だ。わずか50年前の風景なのだが、セシジャーが耽溺した水の桃源郷はもうない。サダム・フセインが干上がらせたのだ。

80年代のイラン・イラク戦争で、南部シーア派がイランと通じて「獅子身中の虫」となることを恐れたサダムは、90年代にダムを築いてチグリス、ユーフラテスの河流を変え、この水郷地帯を滅ぼしてしまった。

おそらく「バーミアンの石仏」爆破に匹敵する歴史的な暴挙だった。追いたてられた貧しいマアダンの末裔が、首都バグダードのスラム「サウラ地区」に流れこみ、今なおテロが続くイラクの震源地になっているのは、なんという皮肉だろう。

セシジャーが葦の原を離れた3週間後に、イラクは革命で王政が倒れた。彼はついに再訪がかなわず、03年8月24日に93歳で没した。

ホモセクシュアルの性向といい、過酷な気候に耐えたスタミナといい、彼は紛れもなく「アラビアのローレンス」の後裔である。本書で残念なのは、セシジャーが撮った美男のアラブ人少年や青年の写真の多くが「コスト」を理由に割愛されたことだ。

割礼したペニスや、カテドラルのようなムーディフ(葦の家)の白黒写真には、明らかに彼の美意識と官能が反映している。つくづく惜しい。

(熊本日日新聞2009年12月掲載)