阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2009年5月26日 [書評]「国宝 熊野御幸記」のススメ――「ジャーナリスト」定家

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熊本日日新聞09年5月24日付の書評コラム「阿部重夫が読む」で 「国宝 熊野御幸記」(三井記念美術館・明月記研究会共編、八木書店 8500円+税)をとりあげました。

定家の日記「明月記」は、「紅旗征戎吾が事にあらず」の傲然たる非政治主義で有名だが、実際に読んでみると随分人間臭い。三井記念美術館は日銀にも近く、分不相応ながら書評にチャレンジしてみた。

南方熊楠が粘菌の採取に縦横に山河を渉猟した地であり、「一遍絵伝」や「小栗判官」でおなじみだ。「有らざらん」の天誅組も、敗走しながら十津川街道をくだり、熊野に逃げようとして、たどりつけなかった。「義経千本桜」の川連法眼も、ほんとうは熊野別当のことではないかと思う。鮨屋に潜伏して(平安末期に鮨屋があるはずもないが、そこは歌舞伎のご愛嬌)復讐の機をうかがう平維盛は、出身が熊野だったという薩摩守平忠度と重なってみえる。

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いつの世も「下流」は哀しい。「百人一首」の歌人、藤原定家も、下級貴族の不満と呻吟と呪詛を綿々と56年間も綴った日記「明月記」を残した。現代の下っ端役人なみに、揉み手すり手で猟官に励み、その俗っぽく滑稽なさもしさは、中世の奇観と言えよう。

「熊野御幸記」はその「明月記」からの抜抄である。建仁元年(1201年)、後鳥羽上皇の熊野詣に定家が供奉した際の記録で、珍しや定家の直筆本ゆえに国宝に指定されている。和歌山在住の神坂次郎氏の労作などで存在は知っていたが、このたびその影印と訓読、現代語訳、注解や関連論文などを収めた決定版が出た。

影印で見る定家の筆跡は、墨の濃淡といい、書き損じや「、」を連ねた略記、加筆、声点のあとも鮮やかで、定家の筆の迷いが透けてみえる。書道に造詣の深い人は、能書にじかに接する喜びを味わうだろう。

それだけではない。全文を通読してみて、京からはるか南の幽邃の地、熊野三山を「貴賤にかかわらず」野越え山越えめざした欣求浄土の群れが目に浮かんだ。

40歳の定家にこの辺境は初めての地だった。22歳の後鳥羽院はすでに3回、熊野に通っている。定家は足に自信がない。それでも同行したのは、院政実力者の内大臣、源通親が熊野に随従するため、なんとか取り入って権少将から中将に官位をあげてもらおうと切望したからだ。

「御幸記」の定家はいじましい。一行に先駆けて船や昼食、宿所を設営する役――現代でいえば「ロジ(スティクス)役」に励む。席を温める暇もなく暁暗に起き出し、輿に乗ったり馬を馳せたり、御幸の先触れや途中の王子社での御経供養や奉幣と走りまわる。

夜は後鳥羽院のお召しで歌会の講師役、へとへとで詠んだ歌に「霜の心すでにもって髣髴(おぼろおぼろ)たり、卒爾の間、力及ばず」と傍書するほどだ。

やっと解放されて寝るのは「三間の萱葺屋で板敷無し」、窮屈平臥を強いられる。ついに寝坊して白拍子の舞いを見損ねた。そそっかしい人だったようで、民家に宿をとったところ、死人が出た禁忌の家と知って慌てている。

穢れた身では熊野に入れない。水垢離、潮垢離で身を浄めたが、風邪をひいてしまう。鼻水をすすり、咳をこらえながらの強行軍。険しい山道に行き暮れ、土砂降りの雨にあう。権をかさに着た内大臣家の家人に、仮屋をしめだされる屈辱。ちょっとミスター・ビーンを思わせるドタバタだ。

修辞をひねる余裕もなく、「河の深き処は股に及ぶも袴をかかげず」とか「次で崔嵬嶮岨を昇り」とか次第に描写がおざなりになり、熊野本宮に着いても「感涙禁じ難し」とあっけない。那智の滝を拝み、大雲取、小雲取越えで豪雨に遭遇して「こころ喪きごとく」とついに失神する。

艱難辛苦のかいあって、定家は出世できたのか。徒労だった。だが、御幸記は800年の後まで生き延びた。定家の悲嘆が目に見えるようだ。ジャーナリズムがジャーナル(日誌)を語源とするなら、定家は報われぬジャーナリストの祖であった。