阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2008年9月22日 [ポリティクス]河野洋平の“後継者”牧島かれんとは――地盤継承の新しいカタチ

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政治ほどリスキーな商売はない。何かを実現するため議員バッジを胸につけようとする方々には「なんと奇特な」と賛嘆するほかないとはいえ、興味津々である。非政治的な人間と自認しているから、自分で政治に身を投じようと考えたことは一度もない。だが、目前に迫った総選挙で身近な人が何人か立候補に名乗りを挙げた。

そのひとりが、引退を表明した衆議院議長、河野洋平氏から後継を指名された早稲田大学公共政策研究所客員講師、牧島かれん(可憐)さんである。彼女がアメリカ留学から帰国して、大学で助手や講師をつとめ出して以来、ご縁がある。国際基督教大学(ICU)大学院行政学研究科で今春博士号を取得されたが、それまでのあいだ、FACTAの創刊準備やトークショー「FACTAフォーラム」などでお手伝いしてもらった。

彼女が政治家志望であることは聞き知っていた。それでも、血縁でもなく地盤でもない神奈川17区で、河野議長がいきなり後継者に彼女(横須賀出身)を指名するとは、後援会も目を丸くしたろうが、私にもちょっとした驚きだった。「河野王国」と言われる磐石の地盤が小選挙区で二分され、議長の長男、河野太郎氏がすでに神奈川15区の地盤を継いでいるという事情があったにせよ、「地バン看バンカバン」の3バンが不可欠とされた従来の継承とは別の、新しいモデルが出現したかに見える。

河野議長と並んで会見した翌日の9月19日、河野派を継承している麻生太郎氏の個人事務所(東京・赤坂)を牧島さんが訪ねた折に、彼女にその経緯と抱負を聞いてみた。

自民党総裁選挙も終盤で、最有力候補で幹事長の麻生氏のスケジュールは分刻み。この朝も「みのもんたの朝ズバッ」に出演したあと、有楽町の外国人特派員協会で他の候補4氏と共同会見に臨む予定で、合間を縫って二人並んで写真を撮りながらの時間だった。
牧島「きのう議長と記者会見させていただきまして」
麻生「あ、後援会でも決まったんでしょ」
牧島「役員会に途中で呼んでいただきまして(後継が)決まりました」
麻生「前の息子のときは紛糾して3時間ね(笑)。おれなんか散々待たされて(笑)。中選挙区から小選挙区への移行で、太郎を出せ、とかえらい騒ぎで……。でも、今度は『おれが決める』とえらい突っ張ってたな。で、あなたに決めたんでしょ」
牧島「はい、議長がご意志を通されて」
麻生「だいたい、(政治家ってものは)辞めるときは人に相談せずに決めるもんなんでね。(河野氏が1995年の)総裁選に出馬しないと言ったときもそうだった。こっち(派閥)は選挙する気だったんだが……。あなたもね、何十年も先になるかもわからんが、辞めるときは、最後は自分で決めるんですよ」
牧島「はい」
麻生「結婚するときは、母親に相談したほうがいいけど(笑)」

牧島さんの政治家志望は、父、功氏の影響が大きいと思える。功氏は学生時代に地元政治家、小泉純也氏の選挙運動に参加して、大学卒業後にその秘書になった。が、66年に純也氏がガンで急逝、ロンドンから帰国した息子の純一郎氏の弔い合戦は敗北に終わった。72年に純一郎氏が当選したのち、74年から独立、75年に横須賀市議に自民党公認が取れなかったにもかかわらず当選した。市議を3期務めたのち87年に県議に当選、98年に参院選神奈川選挙区から自民党候補として出馬した。

かれんさんが河野氏の知遇を得たのはこの選挙から。河野氏に父の選対本部長になってもらい、それからは小田原地域が父の恩人の地盤であり、「第二の故郷」になったという。当時は大学3年で、候補者の娘として17小選挙区を回り、選挙の舞台裏をつぶさに見た。しかし金融不安と恒久減税をめぐる橋本龍太郎首相の迷走などで自民党が惨敗、神奈川選挙区でも2人が共倒れとなった。落選した父はその後県議に戻り、2005年から県会議長をつとめた。

「98年参院選では結果を出せなかったが、応援していただいた方々に申し訳ないという気持ちと、応援に感謝する気持ちの両方が残りました。どうやって恩返しできるかと考えました」という。まず追求したのは「学問としての政治」である。彼女はICU教養学部社会学科を卒業後、米国のジョージ・ワシントン大学大学院ポリティカル・マネージメント大学院に留学し、修士号を取る。

帰国してからは東京純心女子大の講師や桐蔭横浜大学の助手をつとめ、母校ICUの大学院で博士号を取った。博士論文は「レトリカル・リーダーシップとアメリカ大統領――政治的コミュニケーションとその制度化」というタイムリーなテーマ。一種の選挙論で、過去の米大統領選挙でマスメディアをつかって発せられたメッセージの分析である。この分析ツールを使ってオバマ対ヒラリー、オバマ対マケインの戦いを分析したら面白そうだ、と思っていたが、彼女は「学問」から「実践」に軌道を変えた。

その契機は博士論文を仕上げて、早稲田大学の公共政策研究所の河野洋平特別プロジェクト「戦後内閣の軌跡」に参加したことにある。早稲田大学の特命教授に就任した河野氏らと今秋から一緒に講義することになったが、9月に議長サミットを終えた河野氏に呼ばれ、「実践としての政治にかかわる意思はあるのか。よく考えてください」と言われた。河野氏の目には、10年前の女子大生から彼女が成長したこと、自民党が逆風に立つなかで時代を担う人材が必要であること、そして父の選挙を経験して政治がどんなものか分かっていることなどが、白羽の矢を立てた理由らしい。「自民党が新しい方向に向かう最中だし、日本の社会も重大な転機を迎えていると思いました」と彼女も決断の心境を語る。

彼女は地盤の継承でなく、理念を継承する。だが、その理念とは何か。宮沢内閣の官房長官だった河野氏が出した従軍慰安婦をめぐる談話は、「河野談話」として今でも日本の戦争責任論議の的になっている。後継者としての彼女は、反中、反韓ナショナリストの標的になってきた河野氏のリベラリズムを継承するのかと問われるだろう。そして「自民党をぶっ壊せ」と呼号した小泉改革をどう評価するかも試金石だろう。

「創造的破壊と言われた時代でしたが、日本の魅力や底力は十分に生かされていません。女性の力を生かし、自然や人々と共生していくことを通じて、それをもう一度引き出していく努力が重要だと思います。日本の魅力を再定義し、地域を再生したい。破壊や(暴力的な)資本主義よりも、歴史や文化遺産が次の世代につながっていく国、中庸でゆっくりと合意を形成する国づくりをしたい」

たぶん、主張するだけでなく、誰もの意見を聞き、穏やかに説得し、話し合うプロセスを尊ぶことに、本来の保守の意味があると言いたいのだろう。それがどう肉付けされ、どう実現されるかは、これからになる。