阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2008年1月 7日 [書評]「滝山コミューン」のうそ寒さ

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暮れの忘年会のひとつで、日経BP社の柳瀬君、新潮社の横手君、そして杉並区の校長先生になった藤原和博氏と同席する機会があった。そこで奇妙な本とその作者の評判を聞いた。

滝山コミューン1974」。書いたのは明治学院大学教授、原武史氏である。どこかの書評で70年代団地のうそ寒い集団教育の話を書いた本だということはうっすら知っていたが、タイトルもなんだか不気味そうで読む気になれなかった。ところが、優秀な編集者二人が絶賛しているのだ。

こちらは話についていけない(総合誌編集者がこれでは勉強不足と言われる)。新宿駅の423列車とか、遠山啓だとか、何のことやらさっぱりである。しかし作者がもともとわが古巣の日経社会部記者だと聞いて、なんだ、後輩かと急に親しみがわいた。新聞社で落ちこぼれてアカデミズムに転じた(すでにサントリー学芸賞などを受賞しているそうだから慶賀に耐えない)ところまでは、私の軌跡に似ている。

本を取り寄せて正月に読んでみた。しだいに背筋が冷たくなった。ヴェルヌの『十五少年漂流記』を裏返しにしたゴールディングの『蝿の王』を彷彿とさせるが、登場人物の一部を匿名にしても小説ではない。筆者が少年時代に体験した実話なのだ。それも私が生まれ育った東京の中央線沿線のすぐ北側に広がっている西部池袋線沿線の滝山団地が舞台だから、他人事ではない。武蔵野の雑木林が残る閑散とした平野に、突如出現したグリッド状空間である団地がどれほど場違いな存在だったかはよく分かる。

ただ、「滝山コミューン」という意地の悪いタイトルから察せられるように、これは東京のサバービアに出現した逆ユートピアを検証する試みである。滝山団地にできた新造の小学校で若い教師が遠山啓の算数教育法「水道方式」を取り入れ、日教組の全生連の方針に従ってソ連式の集団教育を応用、民主集中制に基づいてクラスを班に分けて競わせ、何の役目も割り当てられない「ダメ班」「ビリ班」をつくることで、生徒をかえってスポイルした。今なら容易にイジメが起きる事態を人為的につくりだし、まつろわぬ生徒を槍玉にあげたらしい。その"地獄”は生徒の一人だった筆者のトラウマにもなった。

それを自分の日記や、全生研の機関誌、そして秀才兄弟の母親が書いた受験自慢本まで引用して、執拗に実態を追いかける。集団への帰依を強いる教師に対する言葉にならない怒りが、この本のディテールにはこめられている。激することのないドライな文体は新聞記者的だが、体制に反発する自分を主人公にして過去の屈辱にこだわっているから、何か異様なリアリズムになっている。

かつての同級生を訪ね、教師にもインタビューしていて、執念は見上げたものだ。が、20年以上もたって、誰もが奇妙なほど記憶が欠落していたという。集団教育を主導した教師とそのクラスの生徒の口から「コミューン」が生まれていくプロセスをたどることはできても、渦中にいた当時の心理は再現できていない。彼らが忘却したのか、自分がこだわりすぎなのか、筆者はもどかしさを感じたはずだ。

ふつうなら、この本は日教組への恨み節で終わったろう。作者のユニークなところは、そこに団地という「空中庭園」の書割を登場させたことだろう。――どの家も同じサイズ、同じ間仕切りで、友達の家に行っても自分の家にいるような錯覚すら呼びさます画一的な空間の恐怖。そういう空間にソ連式の集団教育が適用されたから、小学校に民主主義の仮面をかぶった民主集中制(日本共産党の語彙)の細胞が移植され、癌細胞のように広がっていくのだ。

地元民と隔絶した団地暮らしの母親たちを中心に、PTAもそれを支持した。教師と親が結託しては生徒は救いがない。その抑圧から筆者が辛うじて逃れられたのは、公立中学に行きたくないばっかりに通った進学塾「四谷大塚」と、その途上で新宿駅で潜りこんだ中央線の423列車(筆者には鉄道趣味がある)だった。それが、ともすれば単調になりがちな校内の暗闘の描写を救っている。

少年は最後に東急沿線へのエクソダスを果たす。それが慶応高校への進学というのは、いささか滑稽で哀れでもある。サバービアの精神的荒廃は、ケイト・ウィンスレットが主演した映画『リトル・チルドレン』でも描かれたが、日本では私の知る限り大友克洋の『童夢』(1983)が最初だろう。ボケ老人と幼女の超能力者が、多摩ニュータウンか高島平団地をモデルにした高層団地で戦う筋立てだが、大友の細密描写でとらえた高層団地のぞっとするような無機質は忘れがたい。

同時期に描かれた『アキラ』より、よほど東京が廃墟であることを思い知らされた。70年代にすでに始まった団地の衰退と退廃をまだ誰も書いていないというが、漫画はおそらく20年先行しているのだ。ただ、それは前年に公開されてカルト化した映画『ブレード・ランナー』の荒涼たる近未来をイメージとして拝借したものかもしれない。批評家、吉本隆明が書いたように、無限遠の彼方から地球を鳥瞰し、空がまったく見えない「世界視線」の息苦しさは、団地空間の高度化から生まれたはずだからだ。

それにしても、筆者の「全共闘世代」への憎悪は根深そうである。問題の教師が71年大学卒業で「全共闘世代」に属していたこと、吉本隆明が東工大の師、遠山啓を褒めていることが、この世代をひとくくりにしている理由なのかもしれないが、ちょっと首を傾げたくなる。「世代」と「全共闘」は別である。

この教師は学園紛争直後にすんなり卒業していることからみても全共闘に参加したとは思えない。集団教育に熱心だったことからみても、むしろ代々木系だったのではないか。この本の唯一の欠点は、教師にインタビューしながら、彼の政治的加担とその経緯を問い詰めていないことだと思う。

学園紛争の波が引いたあとも、全共闘世代がサバービアの団地で学生時代の「サヨク」の理想を実現しようとしたいうのは、代々木対反代々木の相克を知らない世代の勝手な幻想だと思う。ああいう仲良し民主主義など嫌悪の対象だった。民主集中制など聞くだに鳥肌が立つ。

私もその世代である。金輪際、教師にだけはなるまいと思った。