阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2006年12月24日 暗闇のスキャナーと犬死

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P・K・ディックがまた映画化された。「スキャナー・ダークリー」(厳密に訳すと「朧なスキャナー」。最初の邦訳であるサンリオ版が「暗闇のスキャナー」と題したのでそれを踏襲する)である。「ブレードランナー」から「マイノリティー・レポート」まで、ディックの映画化はことごとく原作の冒瀆ないしは改悪だったけれど、この映画化はこれまでになく原作に忠実だった。

ということは、70年代の饒舌と退屈、難解と通俗、悲痛と滑稽が入り混じっているということだ。あの時代を知らない世代に、この苛烈なユーモアはまず伝わらない。キアヌ・リーブスの名に釣られてきた女の子の観客が、「ぜーんぜん分かんない」とロビーでつぶやいていた。

彼らがいま原作を読めば驚くだろう。イトーヨーカ堂に買収される前の「セブン・イレブン」が冒頭で出てくる。ジャンキーが油虫にたかられる強迫観念にとり憑かれ、殺虫スプレー缶を買いに駆け込むのがセブン・イレブンなのだ。この妙な生々しさが、ディックの身上だと言える。

脚本・監督のリチャード・リンクレイターはよほどディックに入れ込んだ人らしい。メジャーな俳優を登場させながら、ほとんど娯楽を放棄した作品になっている。キアヌはおろか、万引きでハリウッド・スターから転落したウィノナ・ライダーも、アニメのキャラクターにさせられ、俳優めあての観客は肩透かしを食ったような気分になるだろう。その代わり、ディックのファンは満足する映画である。

「暗闇のスキャナー」の映画化が困難とされたのは、ドラッグの幻覚(その快楽より無限の退屈と悲惨)がリアルに描かれているだけでなく、SFの小道具である「スクラン・ブルスーツ」が難題だったからだ。

多面体の水晶レンズをはりつけた薄い屍衣のようなスーツで、これを着用すると、コンピュータに記憶されたありとあらゆる目の色、頭髪の色、鼻や頬の輪郭、歯並びなどの人体特徴が、眼内閃光のように水晶レンズに投影されて、誰の記憶にもイメージが結実しないという。聖書の「鏡の中にあるごとく」、人は朦朧として変幻極まりない存在となる。精神脱抑止剤の静脈注射で見た幻覚から着想したらしいが、SFのアイデアとしては見事というほかない。

麻薬捜査官である主人公ボブ・アークター(キアヌ)がこのスーツをまとって潜行捜査を行うのだが、なまじのCGでこのアイデアを映像化するのは難しい。監督のリンクレイターはこの難題を克服するのに、実写映像にアニメを重ねる「ロトスコープ」という手法を採用した。なるほど、コロンブスの卵である。

実写にアニメを重ねるから、映画自体がスクランブル・スーツになるのだ。アニメのキアヌの向こうに、常に実写のキアヌを想定させられる。だが、どちらが本物かわからない仕掛けになっている。

それがこの映画の秘訣だろう。キアヌやウィノナが出演したのは、きっとその意図を理解したからだ。俳優のイメージを売るハリウッドの常識に反する「ロトスコープ」に出演したのは、彼らもディックの暗澹たる原作を好み、出口のない迷宮を偏愛しているからだろうか。美男系のキアヌが、「マトリクス」トリロジーの暗い近未来映画に出演しつづける理由がわかったような気がする。

「暗闇のスキャナー」が、SF小説としてもドラッグ小説としても傑作とされたのは、カリフォルニアの乾いた風景の上で繰り広げられる沈痛な絶望的コミックが、自己喪失の時代を過たずとらえていたからだ。スクランブル・スーツを着た主人公が、ドラッグのバイヤーを偽装しているうちに、自分を監視する奇怪な任務を課せられ、重度のドラッグ中毒になって廃人と化していく過程と重ねられている。

自我の崩壊とその先の犬死。作品の最後が近づくと、ほんとうのテーマが犬死であることがわかってくる。「スキャナー・ダークリー」はドラッグに斃れた人びとへの鎮魂歌なのだ。

結末はグノーシス的だ。価値顛倒と陰謀史観の合体。脳を冒された主人公はそこに涅槃を見る。その彼が「フィールド・オブ・ドリームス」のようなトウモロコシ畑で発見するのが、麻薬物質Dのもとである青い花だ。ああ、ノヴァーリス。ドイツ・ローマン派がこのイメージの下敷きになっているのだろう。

ディックの作品2作を翻訳したから、この映画に一つだけ注文をつけたい。青い花のラストシーンだけは実写にすべきだった。そのほうがディックらしい結末となったろう。エンディング・ロールでは、ディックが悼んだ友人のジャンキーたちの墓碑銘まで再現しているのだから。