阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2006年6月20日 [村上叩き第二幕]村上叩き第二幕3――戦犯

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もう応援はしないとはいえ、またもやトホホのドローだった。

他国選手のゴールシーンを繰り返しみせられると、日本って出場国でいちばん弱いのではないかと思えてくる。

わけても戦犯は柳沢だったと思う。肝心なときに役に立たない。絶好のシュートチャンスにも決められないふがいなさを、彼ほど堪能させてくれるFWはいない。わがニッポンの誇るべき象徴である。

さて、一夜あけて、サッカーの試合運びになぞらえて村上ファンド叩きを再考してみる気になった。

こういうときの学者の論というのはたいがい的外れだが、19日付日経朝刊の経済教室欄に書いていた小幡績慶応大学助教授の寄稿は、証取法の内実を論じているのでここで取り上げるに値する。

彼は不正取引を禁じた157条と、インサイダー取引を禁じた166条の2つで、証取法がグレーゾーンを許さない包括的規制の仕組みになっているとしている。これは学者らしい後付けの議論で、いわばゾーンディフェンスとマン・ツー・マンディフェンスを敷いているから、法的には万全なのだというにひとしい。

そうだろうか。このゾーンとマン・ツー・マンの二重性に、立法時の逡巡が潜んでいると私は思う。前回書いたように、立法時に検察や大蔵省はゾーン・ディフェンスに徹する自信がなく、マン・ツー・マンで仕留める「マス法」にしたのだ。今回の村上ファンド摘発のケースで、検察内部では証取法157条適用も検討されたらしい。が、結局、見送った。なぜか。角を矯めて牛を殺すな、というのだ。

157条なら確かに包括的規制が可能になるが、ゾーン全体に網をかけると証券取引を萎縮させ、日本の資本市場を窒息させてしまうことを恐れたからである。

しかし、一人一殺のマン・ツー・マンの最大の難点は、起訴するかしないかが検察や証券監視委員会の裁量に委ねられることである。法全体が地雷原のようになっているから、どこがフェアグラウンドでどこからがOBかが、市場参加者には分からない。

しかも恒常的な人手不足で、検察は常に「訴訟経済」、要は「一罰百戒」の効率性を狙わざるを得ない。その裏で法のもとの平等は等閑にされている。なのに一見、ゾーンディフェンスのような顔をしているから、よけい始末が悪い。この点で小幡論文の懸念は正しい。

実質基準で包括的に禁止し事後的に判断する構造にしないと悪意の取引を防止できない。いわば条文上は法の網の目を完全にふさぎ、事後的に裁判で判断するという構造を(日本の証取法は)とっているのだ。

(中略)
日本の行政当局や検察は、明示的な法令の規定でしか判断できず、確実に立件、有罪が見込めるものだけを告発してきた。明らかに違法なのに立証が難しい取引にグレーゾーンという名前が与えられたのである。

「一罰百戒」の悪影響はまさにこの点にあり、「捕まらなければ違法でも関係ない」と考え、一罰に偶然遭遇するリスクをいとわない投資家の不当利益の獲得を防止できなかった。

パラフレーズすると、市場行政あるいは取り締まりに罪刑法定主義はミスマッチだということだ。法務省も裁判所もこの原則は譲らない。インサイダー規制を課した1987年以来、手つかずである。

小幡論文は「証券市場の制度全体をデザインし直す」ことを求めている。ごもっとも。しかし法曹界の頑固アタマは、市場という融通無碍のアメーバを相手に金科玉条で立ち向かうことしか知らない。

そこに村上事件の不幸な根がある。世論上は「堀江貴文や村上世彰は運が悪かった」「目立ちすぎて出る杭が打たれた」という説明が説得力をもってしまう。しかしグリード(貪欲)の問題ではなく、制度の欠陥の問題なのだ。それでも検察は裁判で勝つだろうが、アンパイアの裁判官が肩を持つからである。

彼らの教条主義を支えているのは、月光仮面程度のちっぽけな正義感でしかないことがわかっていない。ほんとうはそれこそ恣意である。法の執行の恣意は司法の信頼を損ねるという意味で、市場取引の信頼を損ねるゆえに罰せられるインサイダー取引より、ある意味でもっと重大である。戦犯は彼らなのだ。