阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2006年3月29日 [ハイエク]別の顔のハイエク4――「国家の品格」の品格

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3月28日夜、衛星放送「朝日ニュースター」の生放送番組「ニュースの深層」に出演させてもらった。キャスターの木村忠正・早稲田大学理工学部教授(4月から東京大学助教授)のご指名である。私はお喋りは苦手で、顔もテレビ向きではないが、インターネットとメディアについて語れというので、冷や汗をかきながらのトークとなった。中身が雑誌の宣伝みたいになってしまったが、木村教授はこのブログを愛読しているらしい。一段と冷や汗である。

さて、オーストリア生まれの自由主義経済論者F・A・ハイエクを論じるのに、なぜケンブリッジ大学の勉強会の話から始めたかを語ろう。

私より10年以上前に、ケンブリッジのクィーンズ・カレッジで1年ほど暮らした日本人数学者がいた。アメリカで3年間教鞭を取った体験があり、理屈で押しまくることに慣れていただけに、古ぼけた英国の伝統が新鮮に見えたようだ。ニュートンの時代と同じように薄暗いロウソクを灯した部屋で黒いマントをまとってディナーの席につくことを、無上の喜びとする幽霊のような英国人学者たちを見て感激したらしい。彼は論理より情緒とか形とかに重きを置くようになった。それから20年近く経って、この数学者は市場原理によって「アメリカ化」した日本を呪詛するベストセラーを書いた。

藤原正彦氏の「国家の品格」である。

飛ぶ売れ行きらしい。11月の発売から5カ月、販売部数は公称110万部に達し、同じ新潮新書の「バカの壁」より大台乗せは速かったという。新潮社は「2匹目のドジョウ」をつかまえたことになる。担当した編集者、横手大輔君は「フォーサイト」編集部時代に勉強会の幹事をつとめてもらったこともあり、慶賀に耐えない。昨年暮れにパーティで会い、「絶対売ってみせますから」と本を頂戴した恩もある。

ただ、他人のベストセラーにケチをつける気はないが、本の腰巻の「すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本人論」という惹句に値するだろうかというのが正直な感想である。およそ数学者が書いたとは思えない雑な記述がある。

アメリカの経済がうまくいかなくなってきた1970年代から、ハイエクやフリードマンといった人々がケインズを批判し、再び古典派経済学を持ち出しました。もし経済がうまくいかなければ、どこかに規制が入っていて自由競争が損なわれているからだ、とまでいう理論です。時代錯誤とも言えるこの理論は、新古典派経済学などと言われ、今もアメリカかぶれのエコノミストなどにもてはやされているのです。

ハイエクとフリードマンは同じではない。新カント主義を出発点とするハイエクは、「無知の発見」という独自の社会理論の帰結として後期の経済理論を形成したのであって、ケインズ批判を始めたのはずっと前だ。アメリカの経済が傾いてからではない。ハイエクやフリードマンの論文を仔細に読んでいないと思われる藤原氏が、ここまで断定的に決めつけるのは知的退嬰ではなかろうか。

デリバティブは確率微分方程式というかなり高級な数学を用いた経済理論にのっとっています。論理の権化とさえ言えるものです。それが現状では最大級の時限核爆弾のようなものとなり、いつ世界経済をメチャクチャにするのか、息をひそめて見守らねばならないものになっています。

素人をあざむいちゃいけない。確率(偏)微分方程式はそれほど高等な数学ではない。大学理系程度で、藤原氏もよくご存じのはずだ。モルガン・スタンレー元社員の書いた「フィアスコ」は確かに面白い本だが、あれでデリバティブのすべてが語り尽くされているわけではない。

グローバリズムの中心的イデオロギーである「市場経済」は、社会を少数の勝ち組と負け組みにはっきり分ける仕組みなのです。だからこそ、最近我が国で「失敗してもやり直しのきく社会」「弱者へのいたわり」などのリップサービスが、やたらに唱えられるのです。

経済改革の柱となった市場原理をはじめ、留まるところを知らないアメリカ化は、経済を遥かに超えて、社会、文化、国民性にまで深い影響を与えてしまったのです。金銭至上主義に取り憑かれた日本人は、マネーゲームとしての、財力にまかせた法律違反すれすれのメディア買収を、卑怯とも下品とも思わなくなってしまったのです。

ここには明らかに小泉政権への反感がある。規制緩和、市場原理、アメリカ化、勝ち組負け組……が、ひとからげにされて指弾される。最後のくだりは、今や塀の中に落ちたホリエモン率いるライブドアが挑んだフジテレビ・グループ買収への言及だろう。藤原氏が産経新聞の寄稿コラム「正論」でもてはやされるのも無理ないことなのだ。この本をベストセラーに押し上げたのは、我慢が臨界点に近づいた「反小泉」派のカタルシスになったからに相違ない。

「ならぬことはならぬものです」。藤原氏は会津藩藩校日新館の「什(じゅう)の掟」を引く。このぞんざいだが、有無を言わさぬ「問答無用」が喝采を呼ぶのだろう。よほど小言爺さんが懐かしいらしい。しかし「王様の耳はロバの耳」と、地面に掘った穴に叫ぶ床屋みたいな気分になる。そして「究極の競争社会はケダモノの社会です」。おいおい、それじゃケダモノさまに失礼だろう。自然界は弱肉強食だけではなく、共棲もある無限に複雑な構造を持っている。それを一蹴して省みないなんて、どうして誰も苦言を呈さないのか。

彼の本は何冊も読んだ。「若き数学者のアメリカ」「遥かなるケンブリッジ」……英国渡航前に読んだし、「天才の栄光と挫折」に描かれたインドの夭折した数学者ラマヌジャン(1887~1920)には心底あこがれた。いや、彼の父、新田次郎の本だって愛読した。でも、「国家の品格」はいけない。ジョン・ロックもカルヴィニズムも一緒くた、あげくに新渡戸稲造の「武士道」に帰れ、では情けなくないか。

「国際貢献など不要」「英語より国語と漢字」など、この本は随所で思考停止のキャッチフレーズを用意する。皮肉なことに、ものを考えない、という点では小泉首相とそっくりである。そしてグーグルを「アメリカの権化」として礼賛している人々と「国家の品格」は対極にいるように見えるが、前回書いたように「無知」をブラックボックス化してしまう点で双方ともハイエクの手のひらを一歩も出ていないのだ。

トンデモ本すれすれのこの本に品格はあるか。それが最大の逆説だろう。もっとも、藤原氏には「メチャクチャなことを言う数学者はたくさんいます。『お前が一番そうじゃないか』という声が多方面から聞こえてきそうな気がしますが」と自分を笑う諧謔精神がまだある。それが救いである。