阿部重夫発行人ブログ「最後から2番目の真実」

2006年3月27日 [ハイエク]別の顔のハイエク3――ブラックボックスの効用

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ハイエクが発見した根源的な「無知」(ignorance)とは何だったのか。そして、それは市場メカニズムを通じてよりよい均衡を達成できるのか。英国ケンブリッジ大学のローソン勉強会にいたフリートウッドの説明をもう少し引用しよう。

価格が特定の生産投入物の稀少性などの事柄に対して個人の注意を向けさせることによって、価格メカニズムは情報伝達システムのように作動するけれども、価格は個人にすべてを知らせるわけではないから、個人は他の多くのことについて無知である。実現しうる見込みがかなりある計画をたてるうえで個人を助けるのは、ふるまい(conduct)の社会的ルールという形態における、社会構造の高密な網を頼りにすることができるという点である。(フリートウッド「ハイエクのポリティカル・エコノミー」)

その解釈に従うなら、ハイエクは計画経済による人為の全能(前衛党の全能)を否定したばかりではない。市場の全能をも否定していることになる。市場は価格という言語によって需給の情報(生産投入物の稀少性など)を伝達する「テレコミュニケーション・システム」とハイエクは考えている。しかし価格だけが情報のすべてではない。人脈やトレンドといった数量化しにくい「他の多くのこと」の情報を持たない個人が、それでも立ち往生しないで行動に踏み切れるのは「ふるまいの社会的ルール」、つまり市場とは別に存在する「社会構造の高密な網」に依存しているからだという。

ルールは無知の状況下で行為を導く。これらのルールを頼りにすることによって、個人は進化する社会の集合的英知の一部を利用し、これが知識の発見・伝達・貯蔵を可能にする。しかし、これらのルールが知識を扱う能力は完全からほど遠いので、計画と行為の調整は完全、効率的、最適などからほど遠く、ある種の定義でいわれるような均衡をけっして生み出さない。いかなる時点においても、無秩序の状態にいる個人が存在する。(中略)彼らは誤りから学び、計画を再考し、行為をもういちど開始する。これらの修正された計画は、結果的に予期した帰結をもたらすものもあれば、そうでないものもあるだろう。(中略)重複する失望の連続的な流れを経て、秩序が無秩序から生成する。(同)

このハイエク像は的確だと思う。ウィキペディアの創始者ウェールズは、分散された情報を集積すれば新しい知が生まれると信じ、それをハイエク的な市場原理と考えている。そうではない。無知はいくら集めても知を生まないが、自生的な秩序を生みだすのだ。ウェールズの誤読は、おそらく日本のにわかづくりの市場原理派も同じだろう。談合や寡占、政府の干渉などで歪んだ価格シグナルを是正し、需給の最適均衡の疎外要因を取り除くのが自由市場の長所だとナイーブに信じる連中は、ハイエクが離脱し放棄したものにいまだにすがりついているにすぎない。

なぜなら、自己の利益を最大化するために必ず最適な行動をとる「ホモ・エコノミクス」(経済人)の前提を、1960年以降の後期ハイエクは信じていないからだ。彼が見ているのは文字通り「ホモ・サピエンス」(知識の人)であって、ソクラテスが言う「無知の知こそ賢さのはじめ」という人間のパラドクスである。市場秩序もその無知の上に築かれるにすぎず、市場そのものが「全知全能の存在」だとはひとことも言っていない。晩年のハイエクはこう書いた。

私が確信するようになったのは、説明すべき対象である市場秩序の目的は、(中略)その秩序を規定する特定の事実のほとんどについて、すべての人が無知であるという免れがたい状態にうまく対処する点にある、ということであった。(ハイエク「知識、進化、社会」)

ハイエクのいう知識は、価格、数量、期待といった経済モデルの要素よりはるかに広く、生活に必要なあらゆる実際的なトリヴィア(豆知識)から、暗黙の行動ルールや伝統的慣習、さらにゲームの規則まで含む。しかし、社会経済システムに内在する知識の総体は、ひとつの場所に集めることは不可能だし、また単一の主体が知りうるものでもない。世界最大の検索エンジンであるグーグルもその例に漏れないのは、市場がそういう全知全能のトポスたりえないのとまったく同じである。

たとえば自動車を運転するとしよう。ドライバーは車のメカや製造工程をすべて知らなくてもいい。アクセルやブレーキ、ハンドル操作のコツを習得するだけでいい。前者は知識の「内実」であり、後者は「方法」である。内実をブラックボックスにして方法だけ知っている例は、現代生活では枚挙にいとまない。パソコンやiPodといった機器のマニュアルに限らず、作法も制度も由来を知らずに人は従っている。

所与の諸条件を組み合わせて、規律命題のアルゴリズム(計算手法)に従って、まず結果を計算したうえで行動に移すことを、人間はしていない。だが、ホモ・エコノミクスの前提は、そういうインプットとアウトプットの連鎖として経済行動を定義している。ハイエクの発見は、その目的論的、因果論的な世界を捨てて、「無知」を認めたところに出現する宇宙なのだ。数学者クルト・ゲーデルの不完全性定理(自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない)とよく似ていると言っていい。

人は「無知」であるがゆえに、ブラックボックスである社会的ルールに従って、この無知をカバーする。社会的ルールというのは、ニュアンスとしてはウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」(Sprachspiel)に近い。それは内面化され、暗黙知の深層構造となるが、国家や企業あるいは共同体などの有形無形の自生的な社会経済秩序(ハイエクは交換のニュアンスが強い「エコノミー」という言葉を廃し、敵を友にするという意味の「カタラクシー」と呼ぶようになった)として出現している。

人間は目的追求的な動物であるとともに、ルール遵守的な動物でもある。そして、人間が成功しているのは、(中略)人間の思考や行為がルールによって支配されているからである。人間が部分的にしか知らない世界においてうまくふるまうという問題は、こうしてルールを固守することによって解決されてきた。(ハイエク「法と立法と自由」Ⅰ)

市場「原理主義」者、グーグル「原理主義」者がともに見えていないのは、自由市場やグーグル的民主主義がけして「あちら側」のユートピアではなく、「無知」を手なずけるためのブラックボックスでしかないことである。例を挙げよう。市場の透明性と競争入札ではなぜ談合が駆逐できないか。それはライバル業者がいくらで応札するかわからないという「無知」を、社会的ルール化した談合が手なずけ、それを固守することで業者が生き延びているからだ。官製談合である防衛施設庁の事例がいい例だろう。