阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2006年3月25日 [ハイエク]別の顔のハイエク2――無知の発見

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ハーバード・ロー・スクールのキャス・サンスティーン教授が仕掛けた「ハイエク的な市場とブログ圏はどこまで類比が可能か」という設問は、すくなくとも日本では消化難だったようで、まともに考えたブログに残念ながら出会えなかった。日本のブロガーたちのほとんどが、ハイエクなど読んだことがないからだろう。

もちろん、梅田望夫氏の「ウェブ進化論」も一顧だにしていない。後期ハイエクの「自由の条件」(The Constitution of Liberty)は、春秋社版の全集でも在庫切れのまま、再版される兆しもないから、ま、無理もない。ただ、サンスティーンがゲスト・ブロガーになったローレンス・レッシグは、スタンフォード大学のロー・スクール教授であり、アメリカのインテリならハイエクくらいは“常識”に属するのではないかと思う。

娘とボブ・デュランのコンサートに行くような教授であるサンスティーンはしかし、ブロゴスフィアで実現される直接民主制について手放しで楽観していない。彼の書いた「インターネットは民主主義の敵か」(Republic .com)を読んでも明らかで、集団の知――分散情報の集約によって必ずしも知識が改善されるとは限らないと見ているのだ。彼のブログのなかで挙げる「コンドルセの陪審定理」(Condorcet Jury Theorem)がいい例だろう。

ある集団の成員ひとりひとりの正答率が平均して50%以上であるとき、答えの平均が正解である確率は集団の規模が大きくなるほど 100%に近づいてゆく。(中略)コ ンドルセの発見が関わってくる行為は多岐に渡るが、ビジネス・法律・政治の世界で十分に活用されてきたとはいいがたい。

しかし、ここにも困った問題がある。成員それぞれの正答率が(平均して)50%を下回る場合、答えの平均が正解である確率は集団が大きくなればなるほどゼロに近づいてしまうのだ(中略)。コンドルセはこの点をはっきりと意識しており、成員の大半が偏見を持っていたり誤っていると思われるときは、集団平均の知に頼ることはできないと強調している。

サンスティーンが例に挙げるのは、昨年もめにもめた米最高裁判事の人事で、ブッシュ大統領が誰を指名するかをネットで予測したが、実際に指名されたロバーツ判事は予測ランキングではずっと下位で、指名を撤回したクレメント判事が独走するなど、まるであたらなかったという。インターネットによる予測市場は、2004年の米大統領選挙でブッシュ勝利を正確に的中させたほか、映画の興行成績やオスカー(アカデミー賞)の票読みなどで劇的な成功を収めたという。「ウェブ進化論」はそれを大いに自慢しているが、最高裁判事人事のような都合の悪い反証に一言も触れないのはフェアではない。サンスティーンは予測の失敗をこう解釈している。

オープン・ソース・ソフトウエア(OSS)の場合、分散した知識や創造性は豊富に存在しており、それが成功の大きな理由となっている。Wikipediaについても同様のことが言える (集約のプロセスはやや信頼性が低いとはいえ)。一般の商品の市場についても、製品の性能や人々の好みに関しては豊富な情報が散在している。(中略)

なぜ予測市場は時として失敗するのかという問いへの手がかりはここにある。首席判事がどのように行動するか、あるいは大統領が実際にどの一人を選ぶのかに関する広く分散した情報などそもそもあまり存在していなかったのだ。この考えに従えば、予測市場によってテロリストの攻撃を予測できるという(多くの人が信じている)話は信用すべきではないことが分かる。総体として見 た場合、市場参加者はおそらく従来の知見をしのぐ判断ができるほどの知識を持ち合わせていないからだ。

つまり、無知から知は生まれない。集団の知が改善されていくには、暗黙裡の既知の集積がなければならない。知とは想起(アナムネーシス)なのだ、とプラトンの「メノン」でソクラテスが語っているが、あたりまえのことだ。大統領選の支持率といった隠れた数字はネットの予測で精度をあげることができるが、いつどこでテロが起きるかといった本来知りようもないことは、予測をどう組み合わせてもあたらないのだ。日本には「烏合の衆」という便利な言葉もある。

しかし、ハイエクはそれを見通していた。ウィキペディアの創始者も、ハーバードやスタンフォードの法学教授たちも、そこになるとハイエクを誤読している。前回書いたように、ケンブリッジ大学のトニー・ローソン月曜勉強会ではっとさせられたのは、自分も含めたその誤読だった。研究会に参加していたスティーブン・フリートウッドは、ハイエクが正統派経済学から離脱したことを以下のように要約する。

ハイエクが使う理論とは、制約下で一群の諸目的を最大化する合理的主体を含まない。それは関数的関係を伴わないため、需要・供給関数のような基礎的道具が存在する余地がないし、均衡の概念を使用するわけでもない。(中略)数学もしくは統計をともなうわけではないし、仮説演繹法(あるいはなんらかの類似物)を採用するのでも、回帰分析や仮説検定を行うのでも、非現実的な公理や仮定を利用するのでもない。(フリートウッド「ハイエクのポリティカル・エコノミー」)

ありきたりのエコノミストが使う小道具はいっさい使わなかったのだ。それでも、市場経済の基本的メカニズムを説明できたのはなぜなのか。肝心なことは、どんな個人や集団でも根源的な「無知」(ignorance)を抱えていることの発見だろう。フリートウッドはこう書いている。

個人(ないし集団)が計画を立て、行為を始めるとき、その計画に続いて起る他人の行為が自分の計画に影響を与えるはずだが、他人の計画については無知なのだから、自分の計画が完了するというなんの保証もないであろう。知識の全体は一ヵ所に集めることはできないし、一個人ないし一組織が知りうるものでもない。なぜならば、それは断片的で分散的であり、そして多くの場合、暗黙知的(したがって明示不可能)であり、この無知の状態はいたるところに存在するからである。(同)

もっとも、恥ずかしながら私だって、ハイエクの毒にあたっていたことを告白しておこう。反ケインジアン革命の支柱となったシンクタンク、IEA(The Institute of Economic Affairs)の獅子奮迅を書いたリチャード・コケットのThinking the Unthinkable を読んで、IEAに取材に行き、ハイエクの確信犯的なイデオローグぶりに感心した記憶がある。このウィーン人爺さん、なかなかしたたかだな、と。

だが、それだけではない。偏在する無知。そこに彼の発見があると思わなければいけない。