阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2006年2月25日 [ウェブ進化論]ウェブ進化論1――梅田望夫氏の「神の視点」

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暗いところで、段差を踏み外した。足の甲の靭帯(じんたい)を痛めたらしい。土曜の朝は、左足をひきずって中国式整体でマッサージを受けた。三週間休みなしの疲れがたまっていたので、半日こんこんと眠った。さあて、と。

この「FACTA」サイトを製作してくれた人が、私の机にちくま新書の「ウェブ進化論」をぽんと置いていった。作者の梅田望夫氏は顔見知りである。94年からシリコンバレーに住み、コンサルティング会社やベンチャーキャピタルを経営しながら、アメリカのIT社会の最前線をブログなどで発信し続けている人だ。このブログを開始したときもエールのメールをいただいた。お礼もかねて評を書こうと思った。

ただ、知人だからと言って遠慮はすまいと思う。異を唱えるところは唱えよう。彼の発想には、ものを二分して簡便化するダイコトミー(二分法思考)の特徴がある。223ページでは「これからのウェブ進化の方向」を図示しているが、横軸に「ネットのこちら側とあちら側」、縦軸に「不特定多数無限大への信頼と不信」を置き、それを二次元で組み合わせて4分法にしている。あれを見て、彼のモチーフは一語で言えると思った。

「beyond」、あるいは「越境」である。彼はインターネットの「こちら側」と「あちら側」を分けて、「あちら側」へ越えろ、と読者を誘惑している。あるいは「あちら側」へ飛べない人には明日がない、とやんわり脅している。リアル社会からバーチャル(仮想)社会への昇天。熱烈にそれを説くすがたはどこか宣教師に似ている。

彼は折伏しようとしているのだ。分水嶺の境界は検索エンジンの「グーグル」にある。梅田氏は「グーグルの福音」を説くグル(尊師)を自ら任じているかに見える。テクノロジーの急激な進歩とともに、インターネットとチープ革命とオープンソースの三大潮流の相乗作用で、ネット社会は「三大法則」のもとで発展すると彼は主張する。

第一法則 神の視点からの世界理解

第二法則 ネット上の人間の分身がカネを稼ぐ新しい経済圏

第三法則 (≒無限大)×(≒ゼロ)=サムシング。あるいは、消えて失われていったはずの価値の集積

面白い視点だが、二分法思考がもたらす錯覚と思える。反論されるのを承知で挑戦してみよう。第一法則はグーグルを「神」と見るようなものである。「神の視点」のイメージは、衛星から写した地上映像を提供する「グーグル・アース」だろう。誰でも自分の住所をどんどん拡大し、自宅を上空から写した映像を見た瞬間は愕然とする。自分の住んでいる場所がCG(コンピューター・グラフィックス)を駆使した細密な宇宙都市像に化けてしまったようなショックがある。無限の彼方から地球を俯瞰(ふかん)するかのような錯覚。だが、これがグーグルの発明かどうかは疑問である。およそ20年前、人工衛星ランドサットの映像を見てそういう驚異に気づいた文章がある。

ほんとは、わたしたちのいう世界視線は、無限遠点の宇宙空間から地表に垂直におりる視線をさしている。しかもこの視線は、雲や気層の汚れでさえぎられない。また遠方だからといって、細部がぼんやりすることもない。そんな想像上のイデアルな視線を意味している。遠近法にも自然の条件にも左右されない、いわば像(イメージ)としての視線なのだ。(中略)現実にわたしたちが手にできる近似的な世界視線は、航空写真によるものと、人工衛星ランドサットによるものとにかぎられる。(吉本隆明「ハイ・イメージ論Ⅰ」)

西伊豆で溺れて老けこむ前、鋭くかつ難解だった時代の吉本の「地図論」である。グーグルがもたらした「神の視点」とは、このランドサット映像の「世界視線」の衝撃に帰せられる。「世界視線から視られた(あるいは視ることができない)人間の姿は、無視や動物や植物みたいな他の生物とおなじように、地表上にもしかすると存在するかもしれない可能性を持った生物のなかのひとつにすぎない。そして可能性としてでなければ、像(イメージ)として思い浮かべることが無意味な存在だといえる。この無意味な存在だということの極限のところで、世界視線は人間の内部に像(イメージ)として転移される」と予言した吉本の分析は、いまも色あせていないと思う。

「世界視線」とは何か。吉本は映画「ブレード・ランナー」(1982)のCG画像から、その発想を得ている。フィリップ・K・ディックのSF「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を原作とするこの映画の未来都市ロサンジェルスを、吉本は「いままで見たこともない高次の映像」と見た。それは市街の高層ビル群を上空から俯瞰する映像が、常に無限遠点から垂直に降りてくる視線の束にとらえられていて、天空という別次元が見えない密集した地形の上を飛行するとき、そこに「ひとつの次元を加えられた(四次元的な)映像に感じとられる」ことにある。吉本は公理を立てる。

世界視線が加担した映像の次元は一次元だけ逓減され、世界視線を遮断した映像は一次元だけ逓増される。

難解な表現だが、そこから展開される都市論はひとまず置こう。梅田氏のいう「神の視点」とは、仮想空間であるネットから得られた地表の映像が、この「世界視線を遮断した」結果、感受された「一次元逓増された」という錯覚にすぎないのではないのか。梅田氏の「こちら側」とは、キーボードやマウスを通じた現実空間との接点を持つパソコンなど機器類や関連ソフトの世界である。つまり、脳から手を通してパソコンまでが「こちら側」であり、検索エンジンを通じてつながるウェブという仮想空間、グーグルのような検索エンジンで開かれる連想と応酬の世界が「あちら側」とされている。

けれども、それはどこまで行ってもリアルとバーチャルの境界に過ぎず、「神の視点」にたどりつけるとは思えない。梅田氏がグーグルに託した夢は、グーグルの創業者たちが唱えた「膨張していく地球上の全情報を整理し尽くす」というアメリカ的なオプチミズムにある。だが、検索エンジンが整理しうるのは、AというキーワードとBというキーワードを組み合わせて検索し、アルゴリスムの連想ゲームのなかでもたらされる近似値であり、神の全知全能などとうてい達成できないと思える。

むしろ「可能性としてしか思い浮かべられない世界視線の映像(の近似値)」が現実化したとき、人間が「無意味な存在」に転落するということが梅田氏の言いたかったことなのではないか。彼はしがらみだらけのリアルな世界を無化したいのだ。彼の「ウェブ進化論」が、ときに宗教的なミレニアム(千年王国)論者の熱を帯びて聞えるのはそのせいだろう。彼のなかにある反エスタブリッシュメント(日本の旧態依然たる大企業への反感)志向と、オプチミズムの衣を着た末世思想がそれを裏打ちしていると思える。

違いますか、グル(尊師)よ。