阿部重夫編集長ブログ「最後から2番目の真実」
今ごろですがケインズ「一般理論」新訳
2008年01月27日 [書評]
ケインズが1930年代の大不況のまっただなかに書いた「雇用、利子および貨幣の一般理論」。読まれざる名著にこの本も入るのではないかと思う。ただし、日本では。
私がその邦訳を読んだのは昭和44年(1969年)、つまり安田講堂のあとである。難解だった。何度も放り出そうかと思ったが、途中ではたと気がついた。
訳が悪い。当時は東洋経済新報社が版権を独占していて、私が買ったのも戦前の昭和16年に塩野谷九十九が翻訳したものの第42刷である。戦後に何度か改訳したのかもしれないが、とにかく文体が古色蒼然だった。タイトル冒頭の「雇用」が昔の「雇傭」だもの、あとはお里が知れる。
こんな訳に頼れるか、と当時奮発して英語版を買い、直にケインズの文章に触れてようやく腑に落ちた記憶がある。東洋経済は九十九の息子(?)の塩野谷祐一に新訳を出させて、90年代に普及版を出したそうだが、手にしたこともない。正直、懲り懲りだったのである。
私の古巣の新聞社でも、歴代論説委員でこの本をまともに読めた人がどれだけいたのだろう。偉そうに反ケインジアンだの何だのと吹聴する経済部出身者が、一般理論を視覚化したIS-LM曲線のイロハも知らぬお粗末な経済学の知識しかないと知って唖然とした記憶がある。彼らも塩野谷訳に歯が立たず、さりとて「資本論」も理解できず、ずっと薄っぺらなマックス・ヴェーバーあたりでお茶を濁した口なのだ。それだけ塩野谷訳は罪が大きい。
東洋経済の版権独占期間が切れたのか、最近ようやく岩波文庫が新訳(間宮陽一訳)を出した。東洋経済版にはアレルギーのある私も、岩波版はどんなものかと読んでみる気になった。「カラマーゾフの兄弟」の新訳版を読む気にはならないと書いたが、あれは訳者の亀山郁夫の「大審問官スターリン」をまったく評価しない(コラージュと称する切り張り本)からで、ケインズ新訳には少々期待したのである。蜘蛛の巣が張ったようなあのひどい訳で、どれだけのミニ・ケインズの卵が日本で失われたことか。新旧訳を比較してみよう。
たとえば、ピグウ教授のほとんどすべての著作を通じて流れている確信、ならびに生産および雇傭の理論は(ミルの場合と同じように)「実物」交換に基礎をおくものとして構成することができるものであって、貨幣は後の章に申訳的に導入すれば足りるという確信は、古典派の伝統の近代的翻訳である。現代の考えは、もし人々が彼等の貨幣をある仕方で支出しないならば、他の仕方で支出することになるという観念になお深く根を下ろしている。
ひどいもんでしょう。この乱れた文脈は、原文を逐語訳しようとするからで、英語はこんな下手な文章ではない。いや、ケインズはかなりの文章家なのだ。新訳はこうである。
貨幣は摩擦が生じた場合を除くと実質的にはなんの重要性ももたず、生産と雇用の理論は(ミルの理論がそうであったように)「実物」交換を基礎にして構築することができる――貨幣は章を追って、取って付けたように導入される――という確信、これはたとえばピグー教授のほとんどすべての著作に流れている確信だが、このような確信は古典派的伝統の現代版である。現代の思考には、貨幣がある方面に支出されなければそれは別の方面に支出されるという考えがいまなお深く染みついている。
改善の跡は歴然としている。これなら期待できる。東洋経済の直訳は、今なら機械翻訳のチンプンカンプンに近い。これでケインズを論じたのだから、日本のエコノミストが軒並みダメなのも理解できる。ただ、間宮新訳が完全に塩野谷訳の呪縛を吹っ切ったかとなると、定着した訳語には妥協したところもあるようだ。
たとえば「国民分配分」。これは塩野谷訳も間宮訳も同じだ。が、私の書棚にある旧訳「一般理論」には、書き込みがいろいろあって、何だこりゃと思った訳語に原語を付してある。この「国民分配分」はNational dividendとある。国民の配当――なるほど、それなら分かるんだけどなあ。
また、訳語がどうなっているのかと気になったのが、conundrumsである。グリーンスパン前FRB議長が長期金利の不思議な低位安定に発した言葉だ。28日の日経「私の履歴書」でも本人が書いていた。もちろん彼は「一般理論」でケインズがこの言葉を使っていることを承知で、ややぺダンチックに口にしたのだろうが、日本のエコノミストでそれを指摘した人がいただろうか。前議長は、ジョークの通じない浅学菲才と思ったのではないか。
先の「国民分配分」という概念、純産出量という概念が不要というくだりでケインズはその言葉を使っているのだが、旧訳では、
しかもなお、これらの諸困難はまさしく「解き難い難問」とみなさるべきものである。それら諸困難は、事業決意を困惑させることもなければ、また如何なる仕方においても事業決意に入りこむことがないという意味で、「純粋に理論的な」ものであって、経済諸現象――それは、これら諸概念の数量的不確定性にもかかわらず、明快かつ確定的なものである――の因果的継起に対してなんらの関連ももつものではない。
これまたひどい。講壇エコノミストの朦朧体というべきだろうか。「解き難い難問」が新訳では「空の問題」になる。
とはいえ、これら〔国民分配分、実物資本ストック、一般物価水準といった概念〕にまつわる問題は「空の問題」と見るのが相当である。それらは事業場の意思決定を当惑させることはないし、そもそも意思決定に入り込むことさえなく、経済自称の因果連関とも無関係である。
例をあげていくときりがない。旧訳の読みにくさのもうひとつの理由は、ケインズが数式を文章化しているのに対し、訳者が数式を念頭に浮かべられないことに起因する。「確率論」を書いたケインズの数学的頭脳は、思考法も数学的なのだ。英語で読めばそれがはっきり分かる。
それにしても27日のテレ朝「サンプロ」はひどかった。ガソリン税の暫定税率の是非を論じるのはいいが、道路建設が乗数効果の期待できない失業対策にすぎず、ガソリン値下げの乗数効果との比較をひとつも論じられないのには驚く。政府が算出した暫定税率廃止によるGDPマイナス効果の予測は怪しい。社保庁とおなじく、例によってお手盛りの数字ではないか。暫定税率を維持すればガソリン高で車の走行自粛が起こり、地方の道路はがら空きになる。道路を増やせば増やすほど、がら空き道路が増えるという矛盾に誰も触れようとしなかった。
財務相をつとめた谷垣禎一・自民政調会長は、財政通といっても法学部出身だから、ケインズの弟子カーンの乗数理論をまともに勉強したことがないのではないか。乗数効果の低下を主張して、道路予算を削ろうとしたのは財務省ではないか。堂々と「私はケインジアン」と胸を張っていた師匠の故宮沢喜一と比べてあまりにお粗末と思えた。小泉政権下で右往左往した古賀誠・元幹事長も、およそ乗数理論とは縁がなさそうな面構えである。これだから宏池会は駄目になったのだ。
いい機会だから、新訳「一般理論」を読み直し(?)てみたら。ケインズを金科玉条にするつもりはないけれど、第三篇「消費性向」8~10章は古びていない。古代エジプトが暮らしの役に立たない貴金属探しとピラミッド建設に血道をあげ、その巨富を築いたというケインズの皮肉(?)のきいた文章を味読するがいい。里山を蹂躙するあの醜い道路こそ、日本のピラミッドなのだ。
投稿者 阿部重夫 - 22:32| Permanent link | トラックバック (0)
