阿部重夫発行人ブログ「最後から2番目の真実」
藤原伊織の「ダナエ」――何物をも喪失せず
2006年12月29日 [書評]

本が家に届いた。1月に店頭に並ぶという彼の最新作品集「ダナエ」(文藝春秋刊、1238円+税)である。彼に約束した書評をここで書こう。
目を皿にして読んだ。一言で評するとしたら、何と呼ぶべきか。
今生の。
あとの言葉がみつからない。淀みなく流れるストーリーの語り口はいつものように巧みで、ああ、プロなのだなあと感心するばかりだ。でも、措辞のひとつひとつ、レトリックや描写、その裏に透けて見える作者の心の襞を追っていくうちに、繊細に組み立てられた「謎解き」の裏にあるものを思わずにはいられない。
「ダナエ」には未完の透明感がある。小説の結構に難があるというのではない。もっと長編の一部になってもおかしくない筋立てなのだが、複雑なミステリーになる一歩手前でふっと宙に消えてしまう。どこかで作者は謎解きへの執着を捨てたかに見えてならない。
唐突に現れる朔太郎の詩句。
わが思惟するものは何ぞや。
すでに人生の虚妄に疲れて
今も尚家畜の如く飢ゑたるかな。
我れは何物をも喪失せず
また一切を失ひ尽せり。
そしてガーシュインの「サマータイム」とともにあふれてくる涙。
Summertime,
And the livin' is easy
Fish are jumpin'
And the cotton is high
作者は誰の声を思い浮かべているのだろう。ジャニス・ジョプリン、エラ・フィッツジェラルド、いや、淺川マキ……? 知らず、子規の「病床六尺」のような息遣いが聞こえる。
私はもともと小説の楽しみ方を知らない。コトバは非情な武器であり、非情な文章しか書いてこなかった。中篇の「ダナエ」が上質のエンタテインメントだとしても、私には悲痛なノスタルジアとしか読めない。
短編の「水母」のほうがパセチックに思えた。表参道のカフェに座って、5杯のウオッカソーダで気が遠くなるシーンがある。
「世界のすべてが遠ざかっていくような感覚にとらわれた。表参道のざわめきが、潮騒のように高くなり低くなり、耳にとどいてくる。うすぼんやりしたそのあいまいな世界で麻生はじっと息をひそめていた。そのうち、べつのかすかな音が聞こえ、ついで何かの感触が手にふれてきた」
作者は別れを告げようとしている。本の帯に書いてある通りだ。黙って泣こう。
投稿者 阿部重夫 - 15:00| Permanent link | トラックバック (0)

