阿部重夫編集長ブログ「最後から2番目の真実」
内視鏡3――モードとメディアの死
2006年10月23日
忙しいのも考えものだ。映画その他の新作にまったくついていけなくなる。もうしばらく映画館にはご無沙汰しているから、メディア論やら映像論なんてこんなところでお喋りしている割には、全然ついていけなくなっている。
で、しばらく前から西川美和監督の「ゆれる」を見なさい、と迫られている。「蛇いちご」の女性監督さんだが、今度の新作はまさに見る人の心を「揺れ」させるという。主役のオダギリジョーを食ってしまった香川照之(浜木綿子の息子だそうです)の鬼気迫る演技が見ものだそうです。ふーむ、しかし東京ではもう新宿の武蔵野館でしか上映中でなくなってしまった。行く暇がまだない。
というわけで、つなぎに「内視鏡」の続きを書こう。前回触れた鹿島茂氏の『「パサージュ論」熟読玩味』で、不意にこんな引用に遭遇した。
斬新さ、奇抜さ、泡のようにたちまち消えてしまいそうな軽薄さ、頼りなさ、それからシックさ。だけどファッションは、それだけではだめだ。いつも人々に<いつかどこかで出くわしたことがある>と感じさせるものでなければ。ファッションが人々に<いつかどこかで出くわしたことがある>と感じさせるためには、何が必要なのだろう。既視現象とおなじように、逆行する時間によって了解されることがたいせつだ。後ろを向きながら未知に遭遇する姿勢、あるいは未知に向かいながら過去へ遡っている感覚。つまり<死>あるいは<無>から誘導されたイメージを、デザインパターンの認識のなかに含んでいること。〔中略〕優れたファッション・デザイナーは、じぶんのファッションの死のイメージを知っているに相違ないと思える。
これはベンヤミンの引用ではない。1984年の「an・an」に載った吉本隆明の文章である。吉本がもっとも鋭かった時代で、まだベンヤミンの『パサージュ論』は翻訳されていなかった。これをベンヤミンの文章(ファッションはモードという言葉になる)と対比させると、鹿島氏ならずともあまりの酷似にため息をつきたくなるのだ。
モードにはどれにも性愛に対する辛辣な皮肉が含まれており、どれにも粗暴きわまる性的倒錯の気味がある。モードはどれも有機的なものと相対立しながら、生きた肉体を無機物の世界と結び合わせる。生きているものにモードは死体の諸権利を感知する。無機的な存在にセックス・アピールを感じるフェティシズムこそがモードの生命の核である。
ベンヤミンはもっと哲学的な文体でも同じことを語っている。
ここでモードは女と商品の間に――快楽と死体の間に――弁証法的な積み替え地を開いた。〔中略〕モードとは、女を使った死の挑発であり、忘れえぬかん高い笑いのはざまで苦々しくひそひそ声で交わされる腐敗との対話にほかならない。これこそがモードである。それゆえモードは目まぐるしく変わる。モードは死をくすぐって、死がモードを討ち倒そうとしてそちらを振り返ると、とたんに別の新たなモードに変わってしまっている。だからモードはこの100年の間、死と対等に渡り合ってきた。
ベンヤミンはモード(ファッション)を一つの「集団の夢」とみている。グーグル・アースの夢幻空間もまた「集団の夢」だとするなら、モードに刻印された<死>はまた、メディアにも刻印されているのではないだろうか。
メディアとは、仮想の空間をつかった死の挑発と思えてならない。メディアもまた、忘れえぬかん高い笑いのはざまで、苦々しくひそひそ声で腐敗の対話を交わしている。目まぐるしく変わっていて、振り返った瞬間に元の姿ではなくなってしまう。
新聞やテレビなどの既成メディアでも、それを密かに感受して焦慮している人がいる。いまのメディアの最大の病は、自分の死を感受できないことだ。それが証拠に、グーグル・アースは明日のメディアの姿ではない。「いつかどこかで出くわした」ものだ。
すでにしてあの三次元画像は、1950年代のチープなサイエンス・フィクション、いや、戦前の空想科学小説でさんざん夢見たイメージであり、それは「スター・ウォーズ」などのハリウッドSFで陳腐化した映像なのだ。ありえなかったのに、とうに出会っている。それが眼前に出現したとき、吉本の言うように<死>や<無>から誘導されたものであり、その瞬間に新聞やテレビの日常は片隅に押しやられるのだ。
商業メディアは死刑宣告を受けている、と思う。
投稿者 阿部重夫 - 06:00| Permanent link | トラックバック (3)
