阿部重夫編集長ブログ「最後から2番目の真実」
余秋雨「文化苦旅」5――酔っ払いの墓碑
2006年02月11日 [中国論]
恋と同じで、酒にも盛衰というか、ピークと下り坂がある。このところ、めっきりメートルのあがった知人がいて、落ち目の私なんぞはついていけない。酔態ひとつ見せず、長い夜にも背筋をぴんと伸ばして動じない。つくづく酒は体力だと思う。だが、もっと屈託する酒もあって、白居易ら酒豪詩人の多くは、やり場のない欝志を酒に託していたのだろう。
余秋雨がどれだけ酒を飲めるのかは知らない。でも、「文化苦旅」で私がもっとも好きな一編を挙げろ、と言われたら、迷わず「酒公の墓」を挙げたい。「酒公」と号するからには、故人はへべれけの酔っ払いだったのだろう。生前に頼まれて、余愁雨は「破天荒にも」はじめて墓碑を書いたという。
墓碑銘といえば、私の脳裏に浮かぶ風景はただひとつ。アイルランドのスライゴーを訪れた時だ。晩秋の荒涼とした無人の墓地で見た詩人イェーツの墓である。ああ、これがあの有名な墓碑かと思って、しげしげと眺めた記憶がある。
Cast a cold eye on life, on death, horseman pass by!
(生と死に、冷ややかな一瞥を投げ、馬上の人よ、過ぎ去れ!)
それを見てから考えを改めた。墓碑を一箇の文学にしていた伝統がかつては確かに実在し、けれども今は壊れて跡形もないのだ、と。英米の新聞には「Obituary」と題する評伝的な死亡記事があり、そこに墓碑の精神がなお脈々と流れているが、それに匹敵するような名文の追悼記は日本の新聞ではめったに拝めない。ニューヨーク・タイムズでもザ・タイムズでも、社内でいちばんの文章の達人がこの「Obituary」担当を命ぜられるのだ。
鴎外の史伝を見る限り、江戸や明治にはまだ漢学の素養が生きていて、すらすらと碑文を書ける人はいくらもいた。それが文人たるものの心得であり、また商売のタネでもあった。だが、今の日本で墓碑を頼まれて、二つ返事で応じることのできる文人はどれだけいるのだろう。戦後、すでに払底していたことは、全国に残る忠魂碑の愚劣な碑文が証明している。お手本を下敷きにしたことが明らかで、真率な独創がどこにもない。これもまた大戦に敗れた理由だろう。
だが、余秋雨は書けるのだ。「酒公の墓」は、現代中国が望みうる究極の「Obituary」だろう。碑銘は「酒公張先生之墓」の7字だけ。号と姓だけで名がない。それは故人が無名無用の人であり、もうひとりの阿Qだったことを暗示しているかに思える。
酒公が生まれたのは、浙江省寧波(ニンポー)の西南にある霊山、四明山の連なる低い山脈の一角である。宋の時代、そこで張という名の英才がいて科挙の試験で一番(状元)になった。その子孫は代々それを自慢にしてきたが、清末には村に字の読める人がいなくなるほど零落してしまった。が、このままでは状元の墓に申し訳が立たないと、張家の寡婦は休まず働いて息子の張老を、遠く離れた私塾に通わせた。
張老は勉学に励んだが、学業半ばで上海へ出て、商売に転じて蓄財に成功した。が、それだけでは状元の子孫の面目は立たない。そこで20世紀とともに誕生した一人息子にすべてを託し、中学を修了してからアメリカに留学させた。これが青年時代の酒公である。たまたま、胡適之が英語で書いた論文を読んで、論理学(先秦邏輯)の専攻とする。あいまいな中国の思考を論理化して国を救おうという志だった。
が、1920年代、帰国した彼を受け入れる素地が中国にはなかった。論理学の講座を持つ夢を一蹴され、しがない英語の教師の口しかない。が、状元の子孫という評判が上海の文人サロンにとどいて売れっ子になる。スノッブを演じること、つまり論理にお別れすることが、いまは論理にかなうことだった。
ところが、父、張老の死で彼の運命は一変する。郷里に帰って立派な葬儀で父を状元墓のかたわらに葬ったが、青幇(ちんぱん)ギャングの陳親分が現れて、箔つけに彼を師爺(書記係の師匠)に仕立てようとさらっていく。以来、陳親分の告示や書簡は秀麗な書法で書かれるようになった。が、意に染まぬ仕事に、張師爺はヤケ酒を重ね、ついに酒豪となってしまう。
だが、酒とて慰めにはならない。3度も脱走を試み、いずれも連れ戻された。4度目に捕まったとき、懲らしめに足腰が立たないほど痛めつけられてから青幇を追い出された。それきり行方知れずになったが、上海で細々と生きていた。足が不自由では働くのも億劫で、親の遺産はたちまち食いつぶす。
1949年に中国共産党が政権を取り、青幇の陳親分が追放されて、やっと故郷に帰ることができた。村では代書屋を営み、8つ年上の寡婦を嫁にもらう。ところが、酒に酔って「東風は西風を圧倒する」と書くべきところを「西風は東風を圧倒する」と書いてしまい、たちまち右派のレッテルを張られる。妻は彼のもとを去った。
4年後、やっと冤を雪(すす)ぎ、県の中学校で英語を教える職にありついた。県下で英語ができるのは彼1人だったのだ。アルファベットも知らない中学生を5カ月で大学受験レベルに引き上げるという無理難題だったが、4週目でつまずいた。テキストにWe all love Chairman Maoという一文があって、黒板に愛は人のいのちなりと書いたのだ。
教室の空気ががらりと変わる。女学生は真っ赤になってうつむき、男子学生はしかめ面で呆然と目を泳がせる。誰かが噴きだした。「笑い声が一段と高くなって、四十いくつかの若い口がすべて大きく開いて震え、耳を聾せんばかりに、彼を笑い、黒板を笑い、愛を笑った」。酒公は立ちすくみ、そそくさと中学校を去る。
ふたたび村に帰って代筆業をはじめたが、星の悪い彼のもとに結婚の祝辞などの注文は来ない。彼が書けるのはただひとつ、墓碑だけだった。状元墓のある山は風水では埋葬にいいとされ、山は墓で埋めつくされた。大半が酒公の手跡になる。
彼の字は柳公権を骨格にし、蘇東坡を肌に持ち、力強く円熟した、端正かつ活発なものなので、ひときわ人目をひきつけた。他郷からの旅行者は、この山を訪ねても、湖や山の景色をよそに、茂った木々や野の花々を打っちゃり、警告に流れる滝をそっちのけに、山のこの墓碑の一つ一つを愛でるのだった。
碑を書くときの報酬は、酒と肴だった。近隣に酒豪の評判が轟き、彼に「酒公」のあだ名がつく。余秋雨が墓だらけの山にふらりと立ち寄ったのはそのころである。「山一面のすばらしい書法に目を見張った。張先生の出自を聞いてから、再び山上の墓碑の間をさまよった」。それが酒公の墓碑を書く機縁になったのである。
投稿者 阿部重夫 - 06:00| Permanent link | トラックバック (0)
