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阿部重夫編集長ブログ「最後から2番目の真実」

ネット愛国主義の胚1――勘違いした「トムとジェリー」

2006年01月02日 [ネット愛国主義]

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記憶にずっと残っていたが、どこで知ったのか、どうしても思い出せない小話がある。

ある保健指導員が今週報告したところによると、小さなネズミが、たぶんテレビを見ていたのだろうが、いきなり小さな女の子とペットの大きなネコに襲いかかったという。女の子もネコも生命に別状はなかったが、このできごとは何かが変わりつつあるらしいことを思い起こすものとしてここに記しておく。

「あ、そいつはね……」とモノ知りが言う。「マクルーハンさ」。メディアはメッセージ、という名言を残し、「グーテンベルクの銀河系」など逆説のきいたベストセラーを次々と送りだして1960~70年代に一世を風靡したカナダのメディア学者である。

ちょっと滑稽で不気味なこの逸話、調べたら彼の著作にあった。「メディア論 人間の拡張の諸相」(Understanding Media : The Extensions of Man, 1964)の書き出しだ。でも、マクルーハンもよそから引用していて、ほんとうの筆者はニューヨーク・タイムズ紙の名物政治記者ジェームズ・レストン。記事は1957年7月7日に載っている。

このネズミが見ていたのはきっと、アニメ「トムとジェリー」に違いない。あの永遠の鬼ごっこ喜劇はいつ見てもあきないが、あれを見てネズミが現実と混同し、窮鼠(きゅうそ)でもないのに「ネコを噛んだ」とすれば、背筋が寒くなる。しかし、逆上したネズミは一種の比喩だろう。「人間の拡張」をもたらす新しいテクノロジーを伴うとき、メディアはヒトを変える(あるいは逆上させる)――と言いたいのだ。

ソウル大学の黄禹錫(ファン・ウソク、Hwan Woo-suk )教授のヒト胚性幹細胞(ES細胞)に関する論文データ捏造疑惑は、ある面で「ネコを噛んだネズミ」を思わせる。

疑惑を調べたソウル大調査委員会は、黄教授がクローン技術を使ってヒトの皮膚細胞から11株のES細胞をつくったという、米サイエンス誌(05年5月電子版)論文は「でっちあげ」と結論づけた。11株のうち9株は実在せず、残る2株もDNA鑑定すると、もとになった皮膚細胞と一致しなかった。きのうまでの韓国の国民的英雄が、一転してサギ師の烙印を捺されるという劇的な結末を迎えたのである。

その過程で起きた悲喜劇で目を引いたのは、韓国のテレビ局MBCの調査報道である。黄教授転落の引き金は、科学誌の権威ネイチャー誌が指摘した「研究員による卵子提供疑惑」だが、MBCの時事番組「PD手帳」はその検証を05年11月22日に放映した。3カ月かけた丹念な取材で、よくやったと褒めていいスクープである。

取材班は研究員以外の卵子提供者たちと接触し、卵子を売った動機がクレジッドカード借金の返済や、自宅競売回避のため、または小遣い稼ぎだったとの証言を得ているし、卵子を購入した盧聖一(ノ・ソンイル)ミズメディー病院理事長にもインタビューし、「倫理上問題があるとの認識はあったが、国益のために敢行した」と白状させた。報道の要件を満たしているかどうかで言えば、完璧と言っていい。

ところが、ネイバー、ダウム、ヤフーなどのポータルサイトでは、民族の英雄を傷つける蛮行と非難する書き込みが相次いだ。MBC取材チームが「黄教授に引導を渡しにきた」「あなたたちに傷をつけたくはないから……」と言って研究員たちに近づいたことを「取材暴力」と指弾したのだ。ここに浮かび上がるのは「ネット対テレビ」という構図――日本では資本の戦場でライブドアや楽天というネット資本がフジ、TBSの民放勢を飲みこもうとしたが、韓国ではナショナリズムという観念の戦場で激突したのだ。

黄禹錫教授ファンクラブカフェを名乗る同好会が「アイラブ黄禹錫」というサイトを開き、MBCに謝罪を求め、デモやスポンサーに対する抗議電話や不買運動を煽った。「PD手帳」のスポンサーは降板を表明したが、MBCは負けじとニュース番組でもこの問題を報道、「ニュースまで黄禹錫叩きか」「腹が立ってテレビを見れない」などの批判コメントが殺到したという(朝鮮日報)。中央日報はじめ新聞も反MBCのネット世論に引きずられたし、MBCも一時ぐらついた。

黄疑惑は地雷になったのだ。02年大統領選挙ではネット世論のバックアップを受けた盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は「(追及は)このへんで終わりにしよう」と幕引きを図ったが、「韓国の生命工学界を見殺しにしておいて今更やめろとは」、「マスコミの暴力を水に流そうなどとはあきれる」、「国益の問題に目をつぶるな」といった抗議が殺到した。あげくに、黄教授に卵子を提供する女性が200人以上も現れるなど狂騒曲の様相となる。

それがソウル大調査委の結論で「壮大なゼロ」と化した。インターネットという新テクノロジーに舞い上がった「ジェリー」は、漫画そっくりに「トム」をいたぶってきたが、現実はそう甘くない。うぬぼれ鏡のように見たい現実しか見ないことが破局を招いた。それはネット世論の本質というより、高度大衆社会の本質なのかもしれない。

そこで安易に形成されるファクタ(事実)なき神話がメディアの致命傷となることは、中央日報の12月30日号に掲載された「<2005年を反省します>真実知らぬまま『黄禹錫神話』作り」と題する謝罪文がよく表している。問題記事を関連記事として列挙しているが、日本の新聞に身を置いた身として言えば、これは無残としか言いようがない。

他山の石だろう。ネット掲示板でばっこする日本の反韓派は、それみたことかと鬼の首をとったようなはしゃぎぶりで、歴史歪曲問題を持ち出す。しかし、それもまたナショナリズムに毒された勘違いの「ジェリー」でしかない。では、黄禹錫問題とは何だったのか。

素人の憶測はもういい。管見するかぎり、日本で冷静にことの本質を見抜いて書いたと思えるのは、日本医科大学(生殖発達病態学)講師 の澤倫太郎氏の力作「国家主導の生命工学がもたらした悲劇 -バイオ・コリア国家プロジェクトのひとつの帰結」上下だろう。彼は私の知りあいで、同じサイトに私も寄稿しているが、いい論文だった。一読をお奨めする。

あすはお休み。

投稿者 阿部重夫 - 06:00| Permanent link | トラックバック (1)

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From: インターネット放送徒然草
Excerpt: 2005年は日本のインターネット放送にとって大きな節目になったと思う。ホリエモン...
Tracked: 2006.01.02 18:25

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* 発行人 阿部重夫 *

編集長 阿部重夫

1948年、東京生まれ。東京大学文学部社会学科卒。73年に日本経済新聞社に記者として入社、東京社会部、整理部、金融部、証券部を経て90年から論説委員兼編集委員、95~98年に欧州総局ロンドン駐在編集委員。日経BP社に出向、「日経ベンチャー」編集長を経て退社し、ケンブリッジ大学客員研究員。 99~2003年に月刊誌「選択」編集長、05年11月にファクタ出版株式会社を設立した。

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