野村が黒幕「買収提案」に揺れる第一三共

「どこかで一杯食わせてやろう」。英アストラゼネカによる買収提案の「暴露」は野村証券の意趣返しだった?

2017年11月号 BUSINESS

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第一三共にツケを遺した庄田隆相談役

Photo:Jiji Press

8月31日に日経ビジネスがオンラインで流した「特報」は、あまり見かけたことのないシュールな記事だった。

ヘッドラインは「英アストラゼネカ、第一三共に買収提案」とある。

これだけ読めば第一三共株は買いだ。実際、報道を受けて同社株は一時13%高まで急騰。その後、東京証券取引所が報道の真偽を確認するとして売買を停止し、結局5%高で引けた。

しかし本文にはこう書かれている。「巨大製薬企業の英アストラゼネカが、第一三共に買収提案していたことが明らかになった。第一三共は提案に応じなかったが、買収の可能性はなお残る。成立すれば、買収額が1兆円規模に達する超大型M&A。世界的な製薬再編の波がついに日本にも及び始めた」

言うところの超大型M&Aは露と消えた昔話なのか、まだ続いているホットニュースなのか。肝心なことがよくわからないのだ。同日夜、第一三共は「アストラゼネカから買収提案があったというような事実は一切ない」というコメントを発表し、他のメディアの後追いもほとんどなかったから、どうやら昔話を蒸し返したようだが、投資家を惑わせるだけの見出しが付いた記事はなぜ流れたのか。

この日の取引時間終了後、第一三共は「米チャールストン・ラボラトリーズと麻酔性鎮痛剤の開発・販売契約を結んだが、これを解約することに伴って損失が発生した」として、2017年4~9月期に約278億円の減損損失を計上すると発表した。第一三共が悪材料を開示する前に、買い材料をリークしたのか。そのようにも思えるが、事はそう単純ではない。

野村に怒鳴りこんだ庄田隆

アストラゼネカによる第一三共への買収提案は昨年早々、確かにあった。仕組んだのは野村証券。それで第一三共社内は大騒ぎになったという。敵対的買収に備えた組織が内々に立ち上がった。さらに「以前に比べてIR説明会の内容が丁寧になり、おまけにアナリストが経営陣を囲むスモールミーティングが突如として開かれるようになった」と証券アナリストは語る。

これほどまでに「武装」することとなった原因は、当の第一三共にある。その経緯を振り返ってみよう。

2014年、第一三共は子会社だったインド後発医薬品大手のランバクシー・ラボラトリーズの実質売却を決めた。同じインドの後発薬大手サン・ファーマシューティカル・インダストリーズがランバクシーを吸収合併、第一三共は保有していた63.4%のランバクシー株を、サン株約9%に換えた。第一三共はインド事業から事実上撤退した。

08年に後発薬事業の拡大と新興国開拓を狙って踏み切った5千億円の大型買収は、直後からつまずいた。まずランバクシーの主力2工場で品質管理問題が発覚、米食品医薬品局(FDA)から米国への製品輸出禁止措置を受けた。

その後、第一三共は担当者を現地に送り込むなどしてテコ入れを図ったが、ランバクシーの品質は一向に上がらない。それどころかFDAは13年に別の後発薬工場、14年には原薬の生産工場にも禁輸措置を出した。おかげで第一三共は株式の評価損やFDAとの和解金支払いなどで4500億円をどぶに捨てることになった。

サンへの売却を決めたのは14年4月。翌5月にランバクシーの買収を主導した会長(当時)で旧三共出身の庄田隆は退任し、相談役に退いた。代わって実権を握ったのが旧第一出身で現会長の中山譲治だった。05年、「対等の精神」で合併したものの、いがみ合いを続けてきた旧三共と旧第一の争いは、ランバクシーの買収失敗によって決着が付いた。

しかし、話はこれで終わらない。中山ら旧第一出身者でランバクシーの後始末は進められた。蚊帳の外に置かれ、おまけに不本意な形で一線を退く羽目になった庄田は憤懣やるかたなく、ランバクシーの買収を持ちかけた野村に噛みついたという。「野村の本社に乗り込み、居並ぶ野村の役員に『ろくにデューデリジェンスもしない会社の買収を持ちかけやがって。どうしてくれるんだっ!』と怒鳴り上げた」(関係者)

役員が面罵されるという前代未聞の一件を機に、野村の第一三共に対する態度は変わった。「どこかで一杯食わせてやろう」。それがアストラゼネカによる買収提案だったのだ。

幻と消えた武田の買収提案

野村が大人げない挙に出たのは、これまた歴史がある。2000年代前半、武田薬品工業が旧三共の買収を目論んだ。主導したのは当時武田の会長だった武田國男と社長だった長谷川閑史。けしかけたのはゴールドマン・サックスだったといわれる。

「武田や長谷川の意を受けて、村上世彰が密かに旧三共株を買った。村上は旧三共の発行済み株式の約5%を手に入れた」。当時を知る関係者はそう語る。

そのころ旧三共の天皇になっていた庄田はこの動きに動揺し、主幹事証券会社だった野村に泣きついた。これを受けて野村がゴールドマンと話し合い、大型の国内製薬会社再編は幻に終わった。

その後の旧三共は旧第一を合併。庄田は初代社長に就き、10年弱にわたって権勢を振るうことができたのだから、野村にしてみれば「武田の買収から逃れさせ、第一三共の中興の祖にしたのは誰だと思っているのか」という思いもあったのだろう。

過去を振り返ってみれば、確かに野村の提案は筋悪だった。しかし買収の最終決定権者はあくまで庄田自身。過去の歴史も踏まえれば、面罵される筋合いはない。野村がアストラゼネカに買収提案をさせて第一三共を揺さぶった背景には、そうした経緯もある。

話を8月31日に戻すと、第一三共にとって「特報」の影響は今後も続く。コメントで「買収提案の事実はない」としたものの、その後、日経ビジネスで「誤報のお詫び」はついぞ見ない。それどころか、提案の事実があったことを知る人は少なからずいる。

事実なら8月31日の株価上昇を見てもわかるように、企業価値の向上につながったアストラゼネカの提案をなぜ断ったのか、そもそも真剣に検討したのかといったあたりの説明責任が生じる。「第一三共は『事実はない』というコメントを出したことで一件落着と思っているかもしれないが、むしろこれからが大変なのではないか」と証券関係者は言う。庄田が野村に怒鳴り込んだツケは大きい。(敬称略)

   

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